第98回
組織ケーエイ学34:悲しき巨匠。

映画ファンは、だいたいクロサワ派とオズ派に分かれると思う。ふたりの映画は、かたや動的であり、他方は静的である。こちらは構造的だが、あちらは情緒的と、好対照をなしている。かくいうぼくは、だんぜんクロサワ派だ。

ようやく、黒沢明監督のほとんど全作品がDVDになったが、残念なことに全集みたいな豪華パッケージで、まあよっぽどのマニアか、図書館みたいなところでないとなかなか買えない値段だ。黒沢ファンは、もうほとんどがシニアだから、あの価格設定でも構わないと考えたのか知らないが、まるで若い人は見るなと言わんばかりの商品パッケージになっている。
あのDVDパッケージをみると、映画業界も土建屋さながらに、黒沢作品がすっかり利権化していることを感じる。日本の映画も廃れるはずだ。

黒沢監督の映画は、彼の人生の好不調の波を反映しているかのように、変遷しているから、全集を揃えてみたい作家ではある。やっぱり誰もが指摘するように、老いてからのクロサワ映画は、まことに残念なことではあるが、かなり落ちるといわざるをえない(とケナすよりは、充実期の、奇跡のような作品群をたたえるべきなんだが・・・)。
「落ちた」といっても、さすがに巨匠であるから、それなりにスゴイことはやっている。しかし彼の名前に、ぼくらの求めるものが、ケタ違いなものになってしまっているだけに、ギャップがあるのだ。

彼の晩年について、井上陽水が面白いことを言っている。
「若い頃であれば、監督といえどもスタッフの一人というような感じで、周りのスタッフも言いたいことが言えた。そのため、よいアイディアも集まっただろう。晩年の彼は、巨匠になりすぎて、彼の一言ひとことが大変な重みをもってしまった。スタッフはただ彼の意思に従うのみとなり、そういうことで、共同作業としての映画づくりの良さを失ってしまったのではないか。」そんな趣旨だった。

陽水の意見は、さすがにクリエーターらしい、急所をついた意見と思う。
ディレクションは、最後には明快に厳然と決しなければならない。けれども、名匠といえども、自分の頭からすべてがわき出てくるわけではない。
映画を作れなかったころもつらかっただろうが、巨匠として神格化されてからの彼も、なかなか厳しかったのではないだろうか。


←前回記事へ 2003年5月8日(木) 次回記事へ→
過去記事へ
ホーム
最新記事へ