第103回
組織ケーエイ学38:プレゼンテーションをみがこう。

宇崎竜童が母校の小学校を訪れ、後輩たちに特別授業をするというNHKの番組があった。彼のテーマは「愛の歌をつくろう」というもの。小学生に「愛」を求めるところが彼らしい。子どもたちのつくった歌の発表会には、彼のバンドを連れてきて、伴奏させていた。

メロディとしては残念ながらほとんどがお経どまりで、バンドの活躍する余地は少なかったけれど、「ことば」はけっこう個性的なものになっていて、楽しかった。この番組を見ていて思ったことは、「つくる」だけなら、どの子もある程度できる。しかし「発表する」となると自意識が邪魔して、ぜんぜんできない。いちばん上手だった子さえ、「アンコール」の声に「ゼッタイやだ!」といって、逃げまわっていた。
2003年の現代っ子がこうなのだから、われわれの文化において、プレゼンテーション技術の未熟さは相当深刻なものと考えられる。

子どもの頃の、社会のイメージといえば、「がんばっていれば、見る人は見てくれる」というような「あるべき姿」と、「実力はないのにコネとか運だけで出世する人がいる」というような「ずるい現実」とに分かれていて、その中間がイメージできなかった。
しかしビジネスの社会では、意外にも「プレゼンテーション」がその間をつなぐ重要なものだと気づかされる。むしろ客観的には、実力とプレゼンテーションの巧拙が、ほぼ比例関係にあるといってもいいかもしれない。

「誰かが見ている。いつか認められる」という意識でやっていても、客観的には、そのことを他人にアピールできなければ何の意味もない。こう気づかされたのは、就職してからだった。ぼくらの世代では、学校ではプレゼンテーションの技術をまったく習わなかったし、その重要性も知らなかった。

プレゼンテーションでは、まず簡潔で要領を得た書面(企画書)をつくることが前提になる。このとき、細部の技術的な部分などを説明したくなるものだが、受け手にとって重要なのは、使われている技術ではなく、結果だということをキモに銘じたい。
また書面審査でもないかぎり、企画書だけでいいとはいえない。やはり人前で話す、そのときに人を引き込むということが重要だ。このときに欲しいものが、度胸とユーモアだが、このへんのコツは、ぼくもまだつかんでいない。
組織に不満を持つ前に、自己プレゼンの巧拙を反省してみるべきかなと思う。


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