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118. 謙虚であることの合理性

日本人は謙虚という精神性がとても好きですよね。
もちろん、私も謙虚である人間が好きだし、
自分も日々謙虚であろうと思っています。
でも最近この「謙虚」であることの意味は何か、
と考えることがあります。

きっかけは、どこかの雑誌の記事、村上龍さんだったかな?
が書いているコラムに
“私があった優れた経営者は一様にみな謙虚であった・・・”
という一文でした。

もしかしたらそのコラムの内容と
少し重複してしまうかもしれないけど、
その時に脳をビビッっとはしったひらめきのような感覚を
自分で説明してみたいなと思いましたので、
今週は、自分のつぶやきのように書いてみようかと。

実は、私はまったくもって謙虚な人間ではありません。
どちらかというと、傲慢ですし、
特に20代のころのその傲慢さと自信過剰さは、
たびたび他人を不快にさせていたものです。
(その頃の皆さんすみませんでした)

ところが、そんな私でもなぜ謙虚でありたいと思っているのか?

村上龍さんの言うところの“優秀な経営者”を解釈すると、

「優秀な経営者とは、
能力という意味で優秀であることは当然として、
その能力を実際の成果につなげ、
なによりもその状態を長期的に保ってきた経営者」

ということだと思います。最大のポイントは“長期的”です。

だいたい、世の中には優秀、もっとわかりやすく言えば
頭のいいやつはほんとにごまんどころか百万といるものです。

昔、邱先生の自宅で食事をいただいているときのおしゃべりの中で、

「頭の良さでいったら、うちに食事に来た中では田中角栄と
リクルートの江副くんがダントツだったように思いますね。
けど、二人ともあまり幸せな人生をおくったわけではないですね。」

という話を聞きました。

今回の話、何が言いたかったかというと、
男は一生に3回は女にもてる時期があるといわれるように、
仕事でも2回や3回はうまくいく時期があるはずです。
そして、少しうまくいくと必ず自分でそれを鼻にかけるし、
他人のねたみを買うものです。

つまり傲慢であることは、自分の慢心を招き、
他人のねたみを買いまったくいいことがないのです。

翻って、謙虚であろうとする精神性は、
自分の慢心にブレーキをかけ、
他人からもねたみを買うことなく円滑な人間関係を築くものです。

それは、メンタリティーとしての美徳ではなく、
むしろ経済性および社会心理性における
合理的行動だと私は思うのです。そして、

「思考→行動→習慣→人格」

これは私が常に意識している「人格形成フロー」ですが、
合理行動としての謙虚であろうとする思考が、
一方で、結果として人としての品格=人格を磨くことにも繋がり、
悪い事なしです。

謙虚とは、努力を続ける人間の合理的行動であり、
結果として人格を磨きあげるものなのです。


2009年6月29日(月)

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