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134. 匈奴、チベットから日本まで

私は北京に住んでいますが、ここでは北方民族との
戦いの歴史を肌で感じる機会がたびたびあります。
その一つはもちろん、万里の長城ですが、
先日は北京から北東に200キロほどに位置する
承徳という場所を訪れる機会がありました。

ここには清の時代に皇帝が瀋陽に行く途中で休息し、
夏には避暑地としても使われた離宮が残されています。
ここの見所のひとつが「外八廟」というチベット式寺院。

チベットのラサにあるポタラ宮を模して作られており、
内部にはチベット文字、モンゴル文字、漢字の3カ国語で
表記された石碑が残っています。
清の皇帝がチベット教を信仰するチベット人やモンゴル人を
接待する場所として建設されたためです。
宮殿の中にはダライラマを迎えるために作られた
迎賓の間まであります。
現在、チベットというとチベット問題がまず思い浮かびますが、
300年前はチベット教の影響力がずいぶん大きく、
中国もこうして懐柔策をとっていたのですね。

国土の広い中国はいつも隣国から領土を
削り取られる心配をして来ました。
秦の始皇帝は万里の長城を築き、
北アジアの遊牧民族の匈奴からの侵略に心を砕きました。
遊牧民の匈奴には、
「若くて強い者が重んぜられ、老人は軽んぜられる」、
「一族の長が死ねば、跡継ぎが母を妻とし、兄弟が死ねば、
その妻をとって自分の妻とする」といった性質があり、
おおよそ文化的とはいえない、野蛮!?な民族でしたから、
一筋縄にいきません。
匈奴の単于(匈奴王)は中国に度々侵攻するだけでなく、
中国皇帝の側室を献上するように要望し、
皇帝もそれに応じていました。前漢の時代には
中国4代美人のひとり王昭君が匈奴の要求により、
匈奴に嫁いでいった話がとても有名です。
中国にしたらかなりの悲劇的、屈辱的な歴史として
象徴的な物語です。

日本に住んでいると普段の生活の中で
国際外交を意識することはありませんでした。
北京や承徳にいると紀元前から続く中国の歴史深さを
肌で感じることができます。
日本人の中には建国記念日を言えないひともいると思いますが、
中国人はほとんどが答えられるでしょう。
中国では日常と歴史が密接に結びついています。
これからはアジアの時代。そして今年は
日韓併合条約締結から百年の歴史的節目の年です。
中国でもとても注目されています。
私たち日本国や日本人がアジアの一員としてどのように
新しい歴史を創ってゆくか、大変気になるところです。

<つづく>
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2010年8月13日

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