ちょうどその頃、私は『週刊サンケイ』から連載物をたのまれたので、「財界の鉱脈」と題して、手始めに小林一三をとりあげた。しかし、二人目は誰にするかとあれこれ思案しても、小林一三に匹敵する人は一人もいない。明治以後の有名人では、渋沢栄一、福沢諭吉、勝海舟といった人が面白いが、実業家として独創的で、現代を生きている人たちの参考になる人ということになると、必ずしもぴったりこない。さんざ考えた末に、とうとう大屋晋三さんということになった。現役の帝人の社長をとりあげるのは気のすすまないことであったが、破産した鈴木商店の一子会社にすぎなかった帝国人絹会社を今日の帝人まで仕上げた人で、しかも自分の個人の財産にはまったく関心をもたずに生きた人ということになると、小林さんとは違った意味で、大屋さんとはサラリーマン上がりの企業家社長のチャンピオンといってよいだろう。実はその少し前に、私はある経済雑誌の社長に連れられて、大屋さんの大阪の家を訪問したことがあった。大屋さんの家といっても、正確にいえば、奥さんの大屋政子さんの家である。
なぜならば、大屋さんは自分の財産というものに興味がなく、尾山台にある東京宅は家の中を川が流れるという大邸宅であるが、帝人の社宅であり、自分の財産らしきものは何一つもっていなかったからである。それでいて、オーナー社長も及ばないような実力をもち、帝人社長をやめて選挙に打って出、運輸大臣もやれば通産大臣もやった。そのお金はどこからきたかというと、そういう人には人徳があって、いずこからともなく湧いてくるのである。たまたま選挙のために大阪周辺をとびまわっているうちに、テイチクの歌手のタマゴにすぎなかった政子さんと「佳人之奇遇」をやり、一目惚れでたちまち前夫人と離婚し、「うちのおとうちゃん、ウチのおとうちゃん」と周囲が目をまわすような仲の好い夫婦になったことは、とくとご存じの通りである。しかし、政子夫人は、「うちのおとうちゃん」のそとづらとポケットの中のあまりものひらきに一驚し、以後もっぱら利殖の道に励んで、大阪の家屋敷はもとよりのこと、四条畷のゴルフ場などすべて自力で築きあげた。帝人のメインの三和銀行からお金を借りるのに、「社長のハンコをいただければ、すぐにもお貸しします」といわれたのを粘りに粘って、社長のハンコなしですませたそうであるが、むろん、そこは魚心に水心だから、「おとうちゃんの力をかりなかった」といったら嘘になろう。
大阪帝塚山の大屋邸は、鉄筋コンクリートのなんともいえない無表情な造りの家で、私が訪問すると肝っ玉かあちゃんの方が先に出てきて、ビールは出すわ、おつまみは出すわで、通称ケチ子さんにしてはたいへんなサービスであった。
「うちはね、センセイがこられるときいたので、ききに行ってきたのですよ」
と政子夫人はいった。どこに何をききに行ったのかと思ったら、お稲荷さんに邱永漢さんとつきあってもよいか、とお伺いを立ててきたのだそうである。
「それで、どういうお告げでしたか?」
「今日、ビールが出たのを見てもおわかりでしょう。うちは普通のお客はお茶しか出さないんですから」
その日、大屋さんとは三、四十分話をしただけであるが、たいへん気さくな人で、既に七十歳を過ぎていたかと思うが、ずんぶん柔軟な頭脳の持主だな、という印象を受けた。
ところが、東京へ戻って一週間ほどして、街を歩いていて政子夫人とバッタリ出くわした。そうしたら、政子夫人は私の顔を見るなり、「センセ。うちのおとうちゃんがセンセのこと、とても賞めておりましたよ。あの人は百万人に一人くらいの人だって。どんなことがあっても飯の食べていける人だって」
大屋さんと話をしていたときは、別にそんな話は出なかった。私が自分の経歴を述べると、大屋さんは、まだ三十六歳ですか、それじゃ六十歳になるまでに、やりたいことはみんなやりつくして、六十歳過ぎたら、やることがなくなって困りますね、と冗談をいっただけである。

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