文壇に出たばかりの頃、口の悪い大宅壮一さんにあなたは必ずや文壇に生き残っていけると太鼓判を押され、いままた日本の実業界でこの人ありといわれた大屋晋三さんに、生活手形の裏書きをしてもらったのである。「オオヤは親も同然」というから、私はもし生活に困ったら、両オオヤのところへ駆け込むことにしようと冗談口を叩いた。しかし、内心の喜びを禁じえなかったので、私は大屋ご夫妻をご馳走する気をおこし、昭和三十七年七月二十二日に、平町の私の家にご招待をした。当夜は、東工大教授をしていた永井道雄ご夫妻と中央公論社社長の嶋中鵬二ご夫妻にご相伴をしていただいた。そのすぐあと、今度は私たち夫婦がお礼にと、尾山台の大屋邸に招ばれた。
尾山台の大屋邸は宏壮な大邸宅で、正門から入ると、玄関まで辿りつくのに、胸突き八丁の階段を登らなげればならない。そこでふだん家族の人たちは、自動車を勝手口につけてそこから出入りしている。しかし、胸突き八丁を登らせるのが大屋さんのご趣味らしく、当夜は雨の中を大屋さんはわざわざ門までおりてきて、傘をさして私を玄関まで案内してくれた。家の中は、と見ると、調度などは大ざっぱであったけれども、しよっちゅう外人さんを家にご招待するらしく、自分たちが食事をするところのほかに、すしコーナー、天ぷらコーナーがあって、お店のように、提灯がズラリとぶらさがっているのにはびっくりした。お客がきたときだけ職人をよんで料理をさせるらしく、奥様の手料理というわけにはいかない。あの肝っ玉かあちゃんだと、世間の風当たりはどうしても強くなるが、大屋さんは何もかも知っていて、いっさいサラリとききながし、人生の後半は、恵まれた、楽しい日々を送ったのではないかと思う。
先年、大屋さんが大往生を遂げたとき、私は、長くご無沙汰したおわびもかねて、青山葬儀所に出かけて行った。しかし、葬儀に参列する人々が二重三重にとりまいて、私の車は青山墓地をくぐり抜けることもできないほどの混雑ぶりであった。私は塀の外から遥か葬儀所の方を拝み、その冥福を祈って家へ帰った。おとうちゃん亡きあと、カ、カ、カのかあちゃんの方はどんな生き方をするのだろうか、と案じながら。

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