雑誌はその後もずっと赤字がつづいたので、スポンサーについた印刷屋さんがやる気をなくし、来月号からまたしても休刊になると矢崎君は私に告げた。すぐ来るつもりだったが、執筆者たちがこのまま潰すのはもったいないから、みなで金を出しあわせることになり、その相談に大阪まで行っていて遅れてしまった。まだ金はもらっていないが、小松左京、永六輔、宇野亜喜良、友竹正則、篠山紀信らが出資を約束してくれ、七百万円くらいは集まる予定だといった。私は執筆者に株主になってもらって、もし原稿を書かせろといわれたら、どうやって断るつもりなのか、そんなやり方をするよりも、拡販運動でもしてもらった方がよいのではないか、と意見をした。
矢崎君の説明によると、『話の特集』は約一万五千部くらい売れ、月に損をする金額は百万円くらいだという。月百万円くらいなら、もう一年くらいしたら僕がお道楽のつもりで損をしてもいいが、ちょっとタイミングが悪いなあ、といって私は帰った。しかし、家へ帰ってから、どうせ損をするのなら、一年後も今も同じじゃないか、休刊してしまうと読者が散ってしまうからやるなら今だと思いかえして、矢崎君に電話をして僕が引き受けてやろうと通告した。
昭和三十七年十月十五日に、石川台の私の家に、『話の特集』の力になってくれるであろうつぎの面々が集まった。植草甚一、寺山修司、長新太、篠山紀信、宇野亜喜良、和田誠、小松左京、友竹正則、矢崎泰久、横須賀功光、それに、私の友人で広告屋の社長をやっている平岡哲彦、アートディレクターの足立淳のメンバーである。のちにいずれも著名な作家やカメラマンやデザイナーになった人たちであるが、その頃はまだ新進気鋭と無名の中間くらいにいた。私にとってはほとんどの人が初対面であり、こんなことでもなければ知り合いになるチャンスのないような人たちばかりであった。また、おそらくこのときが正式の宴会の中華料理をはじめて食べたのではないかと思うような若いメンバーばかりであった。

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