また、日本料理が好きだといっても、朝から晩まで、毎日、日本料理ではやはりあきがくる。
日本料理にはかなりバラエティがあるけれど、材料のナマに近い味をどうやって生かすかに眼目があるから、昼も夜もつづけると、刺身、天ぷら、味噌汁、煮つけ、焼魚と同じものが重なってくる。同じように、フランス料理に明け暮れていると、クリーム状のソースで胸がいっぱいになって、早くイタリアかどこかに逃げ出したくなってしまう。つまり、私たちの身体が要求するものは、毎日毎晩、最高の料理を食べることではなくて、「変化」であり、「調和」である。まずい、貧しい物を食べるかと思えば、身動きができないほど素晴らしいものを食べたり、ちょうど腹具合のよい食べ方をしたりすることである。この意味で、私たちは毎日毎晩、私たちが人を招待するときのような豪勢な食事をしているわけでもなければ、家にいても、中華料理ばかり食べているわけでもない。
子供の友だちが遊びにくると、テーブルいっぱいに並びきれない皿数の料理を見て、まずびっくりする。しかし、うちの息子たちがそれらの料理に箸をつけようともせず、海苔とタラコと納豆で飯をかき込んでいるのを見ると、もっとびっくりする。ところが、うちに居候をして二週間も三週間も、同じ釜の飯を食べていると、だんだんご馳走に手がつかなくなって、ついにウニと海苔で食事をするようになり、「このうちの子供の気持がわかるなあ」という心境になってくるのである。
つまり料理には、料理屋の料理と家庭料理の区別があるが、我が家の家庭料理の中には、またお客様用料理と、料理屋の板前さんが自分たち用につくる自家用料理とがあるのである。
『プレジデント』誌の社長をやっておられた本多光夫さんが、私たちの家のメニューをじっくり味わった末にいったセリフは、
「ふだんは何をおあがりになっていらっしゃるのですか。ふだん、おあがりになっているものをご馳走して下さい。きっとうまいでしょうなあ」
私は一理も二理もある推理だと思った。どんな手のこんだ料理でも、美味を追求していくうちに、単純化された味に戻ってくる。ちょうど巧緻をきわめた細密画を描いていた人が、簡単な線か、省略した手法で絵をかくようになるのと似たような心境である。そういう心境の家庭料理で、私が好んで食べるものを、二、三あげてみよう。

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