コックがいるようになったので、引越しをした四十四年の夏に、若い友人たちを家へ招待した。
メンバーは、当時、まだ副社長をやっていた丸井の青井忠雄さん、森ビルの若い専務の森稔さん、それから新しくはじまったばかりの日本リクルート・センターの江副浩正社長と森村稔専務の四人である。いま考えてみると、いずれもたちまち日本のトップにのしあがった個性のある企業の経営者たちであるが、そのときはまだホンの駈け出しにすぎなかった。
森ビルについては面白い話がある。森ビルの創業は昭和二十九年というから、私が小説家になろうと思って、香港から東京へ出てきたのと同じ年である。七、八年たって子供たちが小学校の低学年生になった頃、車の前座席に女房と私が乗り、子供たちをバック・シートに乗せて虎の門あたりを走っていると、右を向いても左を向いても、森ビルという新築のデッカいビルが目についた。森さんって誰かしらと女房がきくから、さあ、森という金持ちなら、昭和電工の一家が森という姓だけどね、と私が気のない返事をしていると、突然、女房がうしろの席をふりかえって、
「あなたたちのパパじゃ、とてもこんな大きなビルは建てられないから、悦っちゃん、一軒でいいから、大きくなったらこういうのをあなたが建ててちょうだい」
すると、うちの長男は何と答えるかと思ったら、
「森ビルの息子に生まれたら、トクをしちゃうなあ」
息子の方では自分で苦労することなど少しも考えていないのである。世代のへだたりを感じて、私たちは思わず大笑いをした。
それから何年かたって、私は経済界の人とつきあいがあるようになり、経営者対談をするために、森ビルの森泰吉郎社長のところへ雑誌社の人に連れられて行った。森さんは横浜の蚕糸大学の教授をやっていたことがあったが、教師をやめて米屋を家業にしていた家へ戻り、周辺にビルを建てて賃貸業をはじめたのだそうである。ちょうど高度成長期に突入した日本の大企業は工場の拡大に全力投球していた時分だから、自已資金で本社事務所を建てる余裕はなく、高い保証金を払っても、事務所は賃借りをする傾向が強かった。だからつぎつぎと建てたビルの中では、保証金だけで、土地代から建築費までタダになったのが二軒もあったそうだ。しかし、森さん自身は倹約な人で、社長室ではツッカケをはき、ヒマがあると机に向かっても、金利計算ばかりしているような地味な人であった。
「お仕事はどんな部下を使っておやりになっているのですか?」
と私がきいた。すると、
「いや、慶応を出たうちの息子と二人で弥次喜多でやっているだけですよ」
と森さんがおっしゃるから、
「じゃ、その息子さんにうちの息子をひきあわせてくれませんか?うちの息子は森ビルの息子に生まれたいといっておりますから」
と私は冗談でとばした。
「でも、うちの息子はうちの息子に生まれてよかったなんて思っていないと思いますよ」
「それなら、もっといいんです。うちの息子もあきらめがつくでしょうから」
そんな縁から森さんの息子さんと知り合いになったのだが、息子さんの森さんの方がうちへ見えたときは、うちの息子はまだやっと中学生になったばかりだったから、まともに会話ができるような年齢でなかった。

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