第三に、住込みのコックは夫婦仲がよければよいが、夫婦仲が悪いとなると、そのとばっちりをこちらが受ける。うちのコックの場合は、軍隊にいた頃、近所にあった床屋の女理髪師をからかって夫婦になったのだそうであるが、手に職をもっていても、学校教育は受けていないから、文字も読めないし、初歩的な礼節も心得ていない。お勤めのため三人の子供を母親に預けて出てきたのはよいが、女房の方が威張っていて、私たちに命ぜられた家の中の掃除はやるが、亭主の皿洗いの手伝いひとつしようとしない。その上、ときどき猛烈なヒスをおこし、あるときなどは、私がコックにやったシャツからパンツまで洋服も含めて三十何枚もハサミでズタズタに切ってしまった。またあるときは、スーパーに行って、誰も見ていないのをいいことに万引きをしたところ、隠しテレビでキャッチされて警察にひっぱって行かれた。何をきいても、日本語が通じないから、近頃多い夜の女の出稼ぎと間違えられかかったが、財布の中から出てきた名刺をたよりに、私の秘書が呼び出され、やっと翌日になって帰してもらったこともある。さすがにうちでももてあまして早々に帰ってもらったが、帰るとき、うちの女房の洗顔用化粧油の中身をそっくり盗んで、その中にサラダ油をつめておいた。そんなことととは知らないから、うちの女房はサラダ油で何日も顔を洗って、おかしいな、おかしいなと首をかしげたものである。
第四に、少し余裕ができると、必ず給与条件について闘争をする。故郷へ帰した細君と長女がうまくいかなくて困っていると訴えるから、うちの女房が仏心を起こして、東京へ長女を連れて来させた。中華学校に入れてやり、オーバーコートまで買ってやったのに、娘が休暇に故郷に帰る往複の飛行賃を出してくれないといって、私たちを逆恨みした。三年いる間にお金を貯めて、台北のマンションの一室を買ったが、お金が足りなくなって、このままだと払ったお金が流れてしまうと、女房に泣きついた。仕方がないので、銀行を紹介し、銀行のローンが出るまで、うちの女房がお金を貸してあげたら、ツナギに貸したお金まで銀行利息をとったケチな奥さんだと、家へきた人たちにいちいち悪口をいった。とうとうガマンがならなくて、台北へ帰ってもらったが、台北に二年いる間に自分で店をひらいて貯めた全財産をすってしまい、また雇ってほしいと泣きついてきた。そのときは感涙にむせんで、この恩は一生忘れませんと殊勝なセリフを吐いたが、喉元すぎるとコロリと忘れて、この家の奥さんは本当に口がうるさい、男としての面目が丸潰れだとあちこち言いふらして、また帰ってしまった。内情を打ち明ければ、一年間うちにいたおかげで借金がどうやら返せたのでにわかに気が大きくなって、奴隷解放の宣言でもするような気分になったのである。
「ですからね、コックなんかいない方が精神衛生上よろしいんですよ。食べたいものがあったら、私が料理をしますし、私が料理をしたくないときは、一緒に料理屋へ行けばよろしいんですから」と女房はいう。女房のセリフをききながら私は『随園食卓』の著者袁枚先生がコックについて恨みつらみを書いているのを思い出して、徴笑を禁じられないでいた。

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