盛田夫妻がはじめてこられたのは昭和五十六年八月十八日で、このときのお客さんは井上靖夫妻、一枚の絵社長の竹田厳道夫妻、彫刻家の向井良吉氏、それに龍角散社長の藤井康男氏であった。井上靖夫妻がお見えになったのは、ほとんど二十年ぶりで、井上夫人はうちの長男を見て、「まだこんなに小さかったときですよ」と掌で高さを示し、過ぎ去った歳月を改めて私たちに思い出させた。私が小説家になろうと思って東京へきたばかりの頃は、井上さんは、小谷正一さんをモデルにした「闘牛」という小説で芥川賞をもらってから四、五年たったところであり、流行作家として大活躍中であった。いまはよい年を召され、すっかり老大家らしい風格を備えるようになったが、ただでさえ温厚な話しぶりが一段とスローテンポになった感じもした。
次に盛田夫妻が我が家に見えたのは、昭和五十七年五月二十二日であった。この日同席されたのは辻静雄夫妻、嶋中鵬二夫妻、日本画家の牧進氏、それに若い作家の高橋三千綱氏であった。席上、談論風発してヨーロッパの料理に及び、私がアメリカは飯がまずいというけれど、奮発すればまだいくらかましな食事にありつける、それに比してイギリスはどんな高いお金を払っても、同じようにまずいですね、といったら、辻さんが、いや、ロンドンの郊外に一軒だけ十八世紀の建物で、十八世紀の服装をした人たちが給仕をしているおいしいイギリス料理屋がありますよ、といった。すると盛田夫人が、即座に、
「あんた、十八世紀に生きていたわけでもないのに、どうして十八世紀だってことがわかりますの?」
と反論した。なるほど、こういうところが普通の日本人と違うところなんだな、と私はおかしくもあり、風当たりの強い理由だなと思いあたった。でも、私たちは外人とのつきあいが多いせいか、いっこう気にならなかった。
話は一転して今度は労働組合の在り方に及んだ。盛田さんは、戦後の日本の労働法は、占領軍が意図的に、組合側に有利につくらせた形跡がありますねといった。
「おかげでソニーにはいまもって第一組合が三百人残っていて、しょっちゅうストをやっていますよ。それに、作業中に手がしびれたから会社が一生面倒見ろといって、何もしないで一日中遊んでいる女子従業員の"遊び部屋"もあります。これだけ豊かになったのですから、多少の落ちこぼれはやむをえないでしょうね」

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