Qさんの本を読むのが何よりスキ
という戸田敦也さんがQライブラリーのガイド役をつとめます

第59回
浪人生活の末に「サムライ日本」が誕生しました。

邱さんは「台湾人を忘れるな」を引っさげて
『中央公論』誌にデビューしました。
そのきっかけになったのは20の扉形式で
日本人のことがわかる構想を売り込みに行ったことです。

事の成り行きで「台湾人を忘れるな」が先行して
発表されることになりましたが、
その翌月の昭和32年8月号から
「サムライ日本」の連載が始まりました。

連載は「花は桜木」から「ヒロイズムとホロリズム」、
「夢を盛る器」、「虚礼の哲学」、「清貧の哲学」と
5回続きましたが、
昭和33年正月号から『西遊記』の連載が始まり、
「心ならずも『サムライ日本』は浪人と相成」
(『邱永漢自選集第4・サムライ日本』)りました。
「それから半歳の間、浪々たる失業生活を送ったが、
同年夏『茶の間』という群小大名に拾われ、
昭和33年8月号から昭和34年7月号まで禄を食み」
(同上)ました。

この間、「士気の商法」、「浪曲浄瑠璃」、「さかやき出世術」、
「江戸の仇」、「腹のはなし」、「苗字帯刀」、「美徳のよろめき」、
「一目惚れ」、「明日は我が身」、「ところ侍」、「聞けば落語」と
前に書いた五つの章に続く十二の章が執筆されました。

「禄を食んでいる以上は忠義立てするのが当然と考え、
約束の年季が明けるまで勤め上げるつもりであったが、
『茶の間』大名がお国替えを命ぜられたのでまたしても
失業の憂き目にあった。
よくよく不運なサムライであるこの上は
再仕官はしまいと決心」(同上)し、「年輪主義」、「渋柿の長持ち」、
「花鳥風月」の3つの章は「裏長屋で傘張りをしながら
(つまり書き下ろしで)を書き足し」
(「日本語がわかれば日本人はわかりやすい」。
『日本脱出のすすめ』平成5年に収録)ました。

これで予定どおり20章からなる「サムライ日本」が
完成し、中央公論社から昭和34年8月に単行本として刊行されました。
この『サムライ日本』が主張しているのは
「昔のサムライは頭の上にチョン髷をいただき、脇に刀をさしているが、
いまの日本人とまったく違う人種ではない。
その気質においても、生活哲学においても、
基本的に同じだ」(『邱永漢ベストシリーズ・サムライ日本』)
ということにあります。

この作品のちに邱さんは『会社ニッポン』、『金持ちニッポン論』と
「日本および日本人論」を書くようになり、このジャンルは邱さんの
オハコの一つになっていきます。


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2002年10月25日(金)

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