Qさんの本を読むのが何よりスキ
という戸田敦也さんがQライブラリーのガイド役をつとめます

第101回
♪「恋のインターチェンジ」と「南国の花」♪

東京オリンピックが開催された昭和39年は
戦後はじまって以来の大不況が襲った年でした。
松下電器の会長に退いていた松下幸之助さんが
営業本部長代行となるようなことも起こった年です。
不況の波は邱さんのところにもやってきて、
コンサルタント契約をしていた会社から
解約の連絡があいつぎました。
邱さんは一番役に立つべき大事なときに、
契約を解約されるというのは、
お飾りに過ぎないからだと考え、
残りの会社にも断りの連絡を入れました。

この頃、邱さんは中野鍋屋横丁でスーパー向けのビルを建て、
テナント募集を行なっていました。
思うようにテナントが集まらず、
銀行への借金が返せなくなる心配が起こってきました。
そんなことになったらたいへんだと、
邱さんは「死にたい、死にたい」と弱音を吐いたところ
奥さんから「お金には命を賭けるだけの値打ちはありませんと」と
ぴしゃりとたしなめられます。

奥さんのアドバイスに従って、
ビルの貸出し条件を緩和するとテナントが入り、
返済不能ということにならずにすみました。
しかしお金のないときは家に帰って
フトンのなかにもぐっているのが一番と
邱さんは経理一人と運転手一人だけを連れて
自宅に引きこみます。
40歳のときのできごとです。

自宅に引きこもって何もしないわけにもいかないので、
邱さんは歌謡曲の作詞に興じます。
高校時代に詩作を楽しんでいますから、
その才を生かそうということでしょうか。
この活動の中からヒット作が2曲生まれました。
一つは橋幸夫さんが歌った
「恋のインターチェンジ」です。
この曲は
「真直ぐ行こうか、曲ろうか、
 それともこのまま戻ろうか、
 ここが思案のしどころよ」と繰り返します。
邱さんは「恋のインターチェンジ」は
「自分の曲がり角」でもあったと書いていますね。

もう一つのヒット曲は三沢あけみさんが歌った「南国の花」です。
1年間に2枚もヒット賞を受け、
打率が高いとレコード会社から専属の作詞家になりませんかと
お誘いがかかりますが、
邱さんは熱しやすく冷めやすいところがあるんですかね。
そのときには別に興味を引くテーマが見つかり、
歌謡曲の熱は冷めていたそうです。


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2002年12月6日(金)

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