Qさんの本を読むのが何よりスキ
という戸田敦也さんがQライブラリーのガイド役をつとめます

第234回
『死に方・辞め方・別れ方』は
規定のコースからはみ出したときの男の生き方を追及

『死に方・辞め方・別れ方』の「まえがき」の続きです。
「『息子の結婚式には親の死に方が潜在意識的にこもっている』
と私は本文の中でも書いているが、
『結婚式』を人生の起点とすれば
『葬式』はその終着駅のようなものである。
人生には片道切符しかなく、
鉄道のように折り返しがきかないから
もう一度やりなおすことができない。
紆余曲折はあっても、
一人の例外もなく確実に終着駅に辿りつく。

しかし、最終には終着駅に辿りつくとしても、
『職業』と『結婚』の二つの面で
途中下車を余儀なくされる場面がある。
『辞め方』と『別れ方』は
そうした一生ものと思ったコースから突如、はずされるか、
もしくは、はみ出してしまうかした時の、
男の生き方を追及したものである。

どちらも、かって人生50年といわれた時代には
さして問題にならないことであった。
55歳で定年になっても、あと3年か5年
余生を楽しむ程度の長さしか残っていなければ、
ああでもない、こうでもない、
と悩んでいるうちに死んでしまう。
しかし、男の平均寿命が74才余りともなれば、
一生と思っていた職場から放りだされたあと、
まだ20年も残っているのだから、
どうしたってこの期間を上手に生きる智恵が必要になってくる。
同じように、亭主が60才前に死んでくれることがわかっておれば
亭主に多少の不満があってもここがガマンのしどころ
ということで粘りぬくことができるが、
子供も独立し、もう世間体をはばかる必要もなくなれば、
『粗大ゴミ』を相手にあと20何年を辛抱しようと思わない
女性がふえたとしても決して不思議ではない。
『人生が凡そ25年延びたこと』が
私たちの生活にもたらした変化は、
わたしたちを困惑させるに充分だといっても
少しも誇張にはならないだろう。

つまり私たちは新しい条件の下で生きて行くための
『生活の智恵』を身につけることを
いやでも要求されるようになったのである。
こうした分岐点に立たされて、
私が考えつくような対処の仕方が
はたして言葉の正しい意味で、
『智恵』の部類に入るものかどうかは、
読者諸賢の判断にお任せするよりほかないだろう」
(『死に方・辞め方・別れ方』の「まえがき」)


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2003年4月18日(金)

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