誰が日本をダメにした?
フリージャーナリストの嶋中労さんの「オトナとはかくあるべし論」

第8回
身を捨つるほどの……

いわゆる団塊の世代の人間とつき合ってしばしば感じるのは、
愛国者と呼べる人間が少ないなあ、ということだ。
根っから反国家・反体制なのか、
あるいはなべての権威主義的なものがきらいなのか、
それとも左翼的言辞を弄することが
インテリのとるべきポーズと心得ているのか、
日本の国の悪口となると寧日なし、といった具合なのである。

先日も、五〇代後半の仲間たちと酒を飲み、
ついには酔余の床屋政談に発展したが、
「竹島みたいなちっぽけな島など韓国にくれてやれ」とか
「いっそ爆破して島ごと吹っ飛ばしてしまえばいい」
などと唱える者もいた。
酔っぱらいの戯言と片づけることもできようが、
自国領土をいとも簡単に他国に譲り渡してしまう精神というのは、
いったいどういうものなのだろう。

なるほど竹島は人の住める島ではなく、
日比谷公園ほどの岩礁の集まりには違いない。
が、排他的経済水域200カイリ時代を迎えた今、
水産資源確保の観点から見れば、
単なる岩礁だからと切り捨てるわけにはいくまい。
いやそれ以前に、
どんなちっぽけな島であっても領土は領土、
その価値は北方四島とまったく同じなのである。

中国の行き過ぎた愛国教育が問題になっているが、
日本の永過ぎる“非愛国教育”はもっと問題だ。
左右を問わず権威なるものに唾を吐きかけることには
賛成しないでもないが、
リベラル派と称する団塊の世代の一部は、
自国のやることなすことすべてに唾を吐きかけ、
ややもすると中韓の反日運動に内心拍手を送っていたりする。
彼の国に心情的な同調を示すことで、
過去の侵略の贖罪意識から逃れ
カタルシスを得るためである。
そしてついでに、ちょっぴり進歩派を気取ることもできる。

国を守ろうとする気概がなければ、
一国の独立など叶いっこない。
日本人としてのナショナル・アイデンティティを失くして、
どうして他国のナショナル・アイデンティティを理解できよう。
ふしぎなことに、
団塊の世代の愛読書は司馬遼太郎の『坂の上の雲』だという。
東郷や乃木の生きた明治日本は愛せても、
戦後の日本は愛せぬか?
身を捨つるほどの祖国はありやなしや。

福沢諭吉はいった。
「独立の気力なき者は、国を思うこと深切ならず」と。


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