誰が日本をダメにした?
フリージャーナリストの嶋中労さんの「オトナとはかくあるべし論」

第29回
ああ、歳月!

かつての同僚だった女性フードジャーナリストから
一通のメールが届いた。
そこには
「活躍中のシェフたちは、
 いつの間にか自分より年下になってました」
という嘆息にも似た呟きがあった。
まさに同感。
かつてはどんな集まりに出ても
自分が一番年若であったのに、
いつの間にか一番年上になっている。
私はいまだにその事実に馴染めず、
一夜で葉桜になってしまったような淋しさをおぼえる。
しかし男はまだいい。
老いを怖れる女性の身になれば、
その嘆きは尋常一様ではないだろう。

数多ある諺の中で、一番気が利いてるのは「光陰矢のごとし」
といったのは小林秀雄であったか。
私は「女子と小人は養い難し」
というのもなかなか捨てがたいと思っているのだが、
こればかりは声高にいうわけにはいかない。
そう、光陰は矢のごとし。
時は人を待たず、
ひとたび過ぎ去ってしまえば再び戻ってはこない。
人生を四季に喩えるなら、私は今初秋といったところか。
やがて晩秋を迎え、冬が来て、
そして枯木のように朽ち果て土に還る。
春はもう二度とめぐってはこない。

私はなにも深刻ぶって無常迅速の世を嘆いているわけではない。
時が瞬く間に過ぎていくことに
ただただ呆然としているだけなのだ。
若い頃は目の前に無限の時間が横たわっていて、
光陰を惜しむ気持ちなどこれっぽちもなかったが、
不惑を過ぎた頃から、
どこかで人生の幕を下ろすまでの
カウントダウンが始まったような気がしている。
だからといって、ことさら気を引きしめ、
晩節を汚さぬように生きていこう、
などとジジむさいことを考えているわけではない。
もともと恥多き人生、晩節もへちまもありはしないのだ。

それにしても「五十而知天命」などと
孔子さんも余計なことをいってくれたものだ。
不惑でさえ大いに怪しいのに、天命などといわれても……。
だが宮崎市定の訳によると
《四十歳でこわいものがなくなり、
 五十歳で人間の力の限界を知った》(『現代語訳 論語』
とある。
怖いもの知らずではあるが
すぐ限界を感じ諦めてしまう私としては、
少しばかり気が楽になったような気がする。
いずれにしろ五十歳を過ぎれば、
あとはおまけみたいなものだろうから、
今までどおり、その場をしのぎつつ生きていければいい、
と虫のいいことを考えている。


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