誰が日本をダメにした?
フリージャーナリストの嶋中労さんの「オトナとはかくあるべし論」

第45回
女性は非暴力がお好き (その三)

ケンカは子供の必修科目だった。
それが選択科目になり、
ついにはケンカをしない子は
「分別のあるよい子」と評価されるようになった。
評価を下したのは主に母親たちである。
子供は母親に気に入られようと、
ひたすらよい子を演じるため、
男の子に本来備わっている
闘争本能や蛮性といったものがゆがめられ、鈍磨し、
はては去勢されたペットみたいに無気力になってしまった。

私は若いころ、
街で若いチンピラとつまらないケンカをしたことがある。
結果は惨敗で、半死半生の目に遭わされた。
私の頭は何度もコンクリートブロックにたたきつけられ、
危うく意識を失いそうになった。
「あんた、もうやめときなよ。死んじまうよ、こいつ」。
情けない話だが、チンピラの連れの女の一声に助けられた。

今時の若い者は、激するとブレーキが利かなくなり、
最後まで突っ走ってしまうところがある。
私の味わった恐怖も、
相手の出方がまったく読めない恐怖だった。
殴り合いというのは多少の経験を積むと、
「このへんでやめておこう」
という加減がわかるもので、頃合いを見て互いに引く。
ところが近頃のケンカにはこうした暗黙のルールがなく、
とことんやりあってしまう。
そしてそうした衝動に走りやすいのが、
多く「分別のあるよい子」とされた子供たちなのである。
母親の非暴力主義が、
皮肉にも子供の過激な暴力主義を生んでいる。

のっぺりした非暴力平和主義を信条とする女たちには、
殴り合いのケンカを通して、
子供が肉体的にも精神的にも成長していくという事実が
そもそもわからない。
腕力に訴えるだけで、一も二もなく野蛮と決めつけてしまう。
ケンカにも正しいケンカとそうでないケンカがある。
正しいケンカは一対一で正々堂々とやるもので、
あくまで素手が原則だ。
棒ちぎれなど持とうものなら、卑怯者の烙印を押され、
子供社会の序列は一気に下がる。
男の社会では卑怯者と呼ばれたら、もうおしまいなのだ。

近頃の子供たちのいじめや暴力沙汰を見ると、
卑怯未練の大安売りで、
日本人の品性もよほど下落してしまった観がある。
道義の根本は人の痛みや悲しみがわかるということ。
いたずらにケンカを毛嫌いしていると、
世の中は道義の何たるかを知らない子供たちであふれてしまう。
女親の非暴力主義は罪が深いのだ。


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