誰が日本をダメにした?
フリージャーナリストの嶋中労さんの「オトナとはかくあるべし論」

第61回
ヌーボーよ、さようなら! (その二)

江戸時代にあっては、
男は16〜17、女は13〜14で結婚した。
早婚文化が背景にあったため、
女は20歳過ぎると年増と呼ばれた。
現に「女20は婆始め」という言葉もあり、
わずか19でとうが立ったなどといわれた。
もっとも人生50年とされた当時の感覚では、
20歳が今の時代の30歳くらいの感じであっただろう。
年増にも中年増、大年増とあって、
今風に「おばさん」の一言で括られるようなことはなかった。

年増という言葉はなんとも色っぽい。
池波正太郎流に表現すると、
《みっしりとした肉置きに、女ざかりの凝脂が照り映えて……》
という風になり、
いかにも成熟した女の色香が漂ってくる感じがする。
乳臭かったり、しょんべん臭かったりする
未通女の出る幕などどこにもない。
池波ワールドがいまだに広範な読者の支持を受けているのは、
成熟した男と女の文化がそこにあるからだ。

ところが悲しいかな、
当節は乳臭い男や女どもの天下で、
テレビのチャンネルをひねれば、
どの番組も成熟を拒否したヌーボー男とヌーボー女であふれ、
ブラウン管の中には、聞き苦しい幼児語が盛んに飛び交っている。
癇癪持ちの私は、
「……みたいな」とか「わたし的にいうと……」とか
「○△でエ、□☆のオ」とか、
彼氏のことを「カレシ」と平坦に発音されたりすると、
途端にプッツン(これも若者言葉か)し、
「このバカ野郎!」と叫んでしまう。
公共の電波を使ってバカを伝染させようとするのは、
これはきっと隣国の謀略にちがいない、
などとつい気を回してしまうくらいなのである。

毎年、ボジョレー・ヌーボーの解禁日になると、
日本じゅうでフランス人も呆れるほどのバカ騒ぎが演じられる。
若飲みのヌーボーがわるいなどとは言ってない。
当節の日本の文化は若さや新鮮さを尊ぶ
“フレッシュ至上主義”に過度に毒されていて、
成熟した大人の文化が育ちにくくなっている、といいたいのだ。
結果、皮相浅薄なお子様文化に席巻され、
「日本人の精神年齢は12歳」と断じた、
かのマッカーサー元帥の時代から一歩も進歩することがない。
ヴィンテージワインを、
いや年増女を愛でる文化が育たない限り、
日本人の味覚と美意識は永遠に薄っぺらなレベルにとどまり、
成熟した文化をもつ国々から蔑まれ、侮られ、
嗤われ続けることだろう。


←前回記事へ 2005年8月1日(月) 次回記事へ→
過去記事へ 中国株 起業 投資情報コラム「ハイハイQさんQさんデス」
ホーム
最新記事へ