誰が日本をダメにした?
フリージャーナリストの嶋中労さんの「オトナとはかくあるべし論」

第90回
葬式が好き

昔から晴れがましい場所に出るのがきらいで、
結婚式や祝賀パーティのたぐいは、
できるだけ首をすくめて見送ってきた。
だが身内のそれとなると、わがままばかりは言ってられない。
言ってられないが、出るたびに後悔することが多くなった。

正直にいおう。
結婚披露宴と名のつくものは拷問みたいなものだ。
新郎新婦の友人たちによる幼稚なスピーチや隠し芸。
参列者をないがしろにし、着せ替え人形みたいに、
幾度となく席を外してお色直しをするという馬鹿ばかしさ、
赤ん坊のころからの成長ぶりをビデオ映像で披露するという
愚劣な趣向と羞恥心のなさ……
どれもこれも聞くに堪えないもの、
見るに値しないものばかりである。
それより何より、式場側の商業主義にまんまと乗せられ、
満座の前でかくも幼稚なセレモニーを繰り広げ、
そのことに一点の恥じらいも持たないという、
その精神の低さが情けない。

私は愚かな結婚披露宴に欠礼することはあっても、
葬式にはできるだけ出るようにしている。
葬式の厳粛さが好き、
などというとあらぬ誤解を受けやすいが、
少なくとも葬式には、
結婚披露宴に見られる愚劣さや軽薄さは見られない。
人間の死という冷厳な事実が、それを許さないからだ。
ふだん会うことのない叔父や叔母、従兄弟たちと
久しぶりに顔を合わせ、
互いに無沙汰の挨拶を交わせるというのも
葬式の効用のひとつだろう。

数カ月前、かつての同僚で、
「援助交際」という言葉を世に広めた
ノンフィクションライターが急逝した。
数人の者から、葬儀に参列しないかと誘われたが、断った。
亡くなった男と私たち夫婦は、
当時とても仲のいい友だちだったから、
断ったことが意外に思えたのか、
電話口の彼らは総じて不満そうな口ぶりだった。
なかには
「俺は義理堅い人間だから行ってくる」
と非難がましいことをいう者もいた。

葬式というものは誘い合って行くものではない。
誘われれば、だれだって断りにくくなる。
それゆえ、そもそも誘い合うことは
相手に対して非礼なことなのだ。
哀悼は個々人の心の中の問題であって、
その誠の深浅は、
葬儀への出欠などで量られるべきものではない。
近頃は齢のせいか葬式ばかりにお呼びがかかる。
でも、それでいい。
来るべき娘の結婚式をも含め、
憂鬱なセレモニーは
できるだけ先延ばしにしてもらったほうがありがたい。


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