誰が日本をダメにした?
フリージャーナリストの嶋中労さんの「オトナとはかくあるべし論」

第126回
虚業に生きる

日本のプロスポーツ選手たちは一様に言葉が貧しい。
相撲取りなどはその代表選手で、
あんまりしゃべりすぎると力が抜けるという
迷信でも信じているのか、
マイクを向けても
「思い切っていくだけです、ハァハァ……」
「よく憶えていないっス、ゼェゼェ……」
と、十年どころか百年一日のごとく変わりばえがしない。
俗に「大男総身に知恵が回りかね」というが、
これでは社会に出しても使いものにならず、
相撲を取るぐらいしか能があるまい、とつい思われてしまう。

野球にしろ相撲にしろ、
私が日本のプロスポーツ選手を見ていつも感じるのは、
サービス精神が足らないということだ。
私は野球ならメジャーリーグが贔屓で、
日本のプロ野球は見ない。
理由は簡単、一流好みだから。
メジャーの選手は技も一流なら、ファンサービスも一流。
プロ意識が高いから、オフはチャリティやら奉仕活動に忙しい。
自らの「分」をよくわきまえているのだ。

考えても見てくれ。
棒ちぎれを振り回し、ボールを追いかけ回すだけで
億千万の金がもらえる世界が、いったいどこにある。
裸で抱き合い、押しくらまんじゅうをするだけで、
銀座を豪遊できる商売がどこにある。
芸人同様、プロ野球選手も相撲取りも堅気ではない。
稼いだ金はいわばあぶく銭で、
本来であれば、一晩で散財すべきものなのだ。
何を製造するでもなく、何を販売するでもない。
ただ一芸を披露して観客から見料をいただく。
つまりは虚業なのだ。
虚業がわるいとはいってない。
物書きなどは虚業の最たるもので、
米や野菜を作る農民みたいに、
何か形あるものを作り出しているわけではない。
ただ言葉のレトリックで周囲を煙に巻き、
そのどさくさに糊口を凌いでいる。
このことは私の内なる引け目にもなっていて、
どこかに売文の徒である自分を蔑む気持ちが、
埋み火のようにくすぶっている。

巨大なすりこぎを、
あるいは耳掻きの親分みたいなものをひと振りするだけで、
贅沢な生活ができる。
それは戦争のない平和な時代だからこそ許される
フィクションというべきもので、
所詮はあぶくのような存在なのだ。
そのことをわきまえないと、周囲がチヤホヤするだけに、
時に分際を忘れ、自身をひとかどの人物ではなかろうか、
などと錯覚してしまう。
あぶくにも誇りはあろう。
だがサービス精神を忘れたあぶくは、ただのバチ当たりなのだ。


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