全学連の「種蒔く人」 東京空襲で岡山に疎開する

クラスメイトの中に、時の侍従長の息子がいたので、私はまた聞きであったが、宮中で重臣たちがどんな動きをしているか、だいたいのことがわかった。その情報が正しいとすれば、大東亜戦争は末期に近づきつつあった。内台航路はアメリカの潜水艦によって遮断され、家からの送金も連絡の手紙もほとんど途絶えてしまっていた。私は台湾から東大に来ている一留学生にすぎなかったけれども、間もなく日本は戦争に負けるだろうと予想していた。
昭和二十年三月九日の夜のことだった。私は仲の良かったクラスメイトのひとり、松本英男君に誘われて小石川にある彼の出身地・岡山県の寮に行き、夜遅くまで喋り込んでしまった。夜が更けてくると、またまた空襲警報が鳴りはじめ、B29による空襲がはじまった。もう空襲警報や爆弾の投下は珍しくなくなっていたが、その夜の空襲はいつもと様子が違っていた。いつもならすぐ空襲警報解除になり、防空壕に入っていた人たちも部屋に戻って寝ることができたが、その夜に限って大編隊による空爆が続き、寮の屋根にのぼって東のほうを見ると、町中が大火事になってその焔で空まで明るくなっていた。
「どうやら本郷の方向だな。僕のアパートも焼けてしまったかもしれないなあ」
若い時はあきらめるのも早かったから、この寒空の中で明日からもぐり込むフトンがなくなるということも大して気にならなかった。
「行くところがなければ、オレんとこの田舎に行こうや。どうせ先生方だって東京にはおられなくなるだろうから」
と松本君は誘ってくれた。
夜の明けるのを待って後楽園まで歩き、電車道を真砂町のあたりまで来ると、屋根が焼けおちて焦げた匂いがそこいらに充満していた。煙のくすぶっている中を通りすぎて、もう駄目だろうと思いながら赤門前まで来ると、何と東大のシンボルともいうべき赤門がちゃんと立っているではないか。しかも、赤門前の路地を入った一角が奇跡的に焼けずに残っていた。私と許武勇さんが隣り同土で借りていた赤門アパートも無事だった。
「君がいなかったから、鍵をこわしてフトンとマクラだけ経済学部の研究室まで運んでおいてあげたよ。あっちは鉄筋だから、焼夷弾がおちたくらいでは焼けないと思ってね。でもアパートも焼けなくて本当によかった」
許さんは、昨夜の悪戦苦闘など忘れてケロリとしていた。しかしもうこれでは東京にも住めないから、親のいる神戸にでも帰ると言って、荷物を片づけにかかった。私としても、どこに疎開するか、きめなければならなかった。徴兵検査不合格のために学内に残された四十人の同期生の中で、特に親しくしていた松本英男君と長尾淳一郎君のどちらからも、「うちへ来いよ」と声をかけられた。長尾君は富久娘という造り酒屋の親戚で、お父さんは酒造りの技師であった。ただ家が広島市の町の中にあったので、広島市が空爆を受けたら、またまた再疎開しなければならないと思って、せっかくの好意だけれどと言って辞退をした。まさか原爆の一発目が半年後に広島市におちるとは夢にも思っていなかった。人間の運命なんて、ほんのちょっとの差で大きく変わるものである。
もう一方の松本君は、お父さんが九州電力の技師で、家は福岡市にあった。しかし、本籍地の岡山県上道郡の浮田村(現・岡山市)というところに藁葺きの田舎の家が空き家になっていた。
少しばかりの農地も残っているので、晴耕雨読の生活をするつもりなら、きっとのんびりできるよと誘ってくれた。岡山市のすぐ近くでもあるし、そちらの話に乗ることにした。まずアパートにおいてあった本やさしあたり不要な家財道具は、経済学部研究室の倉庫の中に一時おかせてもらうことにした。半年以上も本の整理を手伝った関係で、事務の人たちとは誰とも親しくなり、その代わりなくなっても責任を負わないよという条件で承知してもらった。
岡山市には松本君の叔父さんが市役所に勤めていた。その家で二、三日泊めてもらい、叔父さん一家の家財道具をリヤカーに積んで郊外の家へ何回も運んだ。もしそれをやっていなかったら、叔父さんは全財産を失ってしまったに違いない。やがて焼夷弾による空襲が地方都市にも及び、焼け出された叔父さん夫婦が着のみ着のままで田舎の家へころがり込んでくることになったからである。

←前ページへ 次ページへ→

目次へ 中国株 起業 投資情報コラム「ハイハイQさんQさんデス」
ホーム
最新記事へ