新生台湾建設研究会と東大社研

自分の気持としては、一日も早くそうした環境から逃げ出したかった。そのためには、早い機会に台湾へ帰ることであった。日本政府はすでに海外に船を動かす能力を失っていたし、アメリカ軍には台湾人に配慮するまでの余裕がなかった。船が出るのはいつのことになるのか、まったく見当もつかなかった。それでも、私たちは希望に燃えていた。いままで頭の上に巨大な重石としてのしかかっていた帝国主義日本はなくなってしまい、自分らの台湾を自分たちで統治していける立場にたっていた。いずれ蒋介石の国民政府が台湾へ入ってくるだろうが、少なくとも自分らを被支配民族扱いする人たちではないだろうと誰もが信じていた。それが実はそうではなくて、日本人よりももっと悪逆非道の搾取者であることを知るのにさして時間はかからなかったが、知らぬが仏で、少なくともその時点では、台湾からの留学生たちは誰も彼も元気溌剌としていた。
いままで、各大学に行っていた台湾人学生の間には相互の連絡はなかった。うっかり連絡をしたり、一堂に会したりしようものなら、それこそ特高に嫌疑をかけられかねない立場にあった。
しかし、もうそんな心配はなくなっていたから、台湾人同士の横の連絡をとるこまめな学生も現われ、「新生台湾建設研究会」という会をつくって皆で定期的に集まるようになった。当時、東京にいた先輩筋の台湾人は、東大法学部を卒業して大蔵省で地方の専売局長をやっていた朱昭陽氏、早稲田大学出身で総督府の統治を敬遠して代々木上原に大邸宅を構えていた台南市出身の大地主の謝国城氏、ずっと年は若いが、中央大学法学部出身で東京都に勤めていた楊廷謙氏などがいた。その中でも、もっとも若くて元気だった楊廷謙氏が世話役を買って出て、時々、清正公前にある東京都の寮の広間を借りて研究会を開いて気焔をあげたりした。将来、台湾に帰ったら、大学で教鞭をとりたい人、財界で活躍したいと思っている人、さては官界で金融や財政を担当したいと希望している人は、それぞれ自分の抱負を披露して自分の夢を大きくふくらませていた。
まさか、台湾大学で采配をふるうつもりになっていた朱昭陽氏が、私立大学を設立することすら許されず、延平中学の校長になるのがやっと、楊廷謙氏がその硬骨の故に叛徒としてとらえられ一生を獄中につながれ、辛うじて人あたりのよい謝国城氏だけが火災保険会杜の会長として実業界の片隅に生き残り、世界にその名を馳せたリトル・リーグ「台湾少年野球団」の総幹事として命脈を保つといったきびしい運命を辿るようになろうとは、神ならぬ身の知る由もなかった。
さて、一方で台湾人のグループと緊密な連絡をとりながら、十月になると私は大学院へ入った。
そこへ海外に連れて行かれないで国内の部隊で除隊になった学生たちが続々と戻ってきた。繰上げ卒業になった者はそのまま就職したり社会に出て行ったが、途中で入隊した者も多かったから、学内の教室が何年分かの学生たちで溢れるようになっていた。いままでのきびしい統制から解放された学生たちは、はじめて新鮮な空気を吸うように、言論と集会の自由を満喫することになった。勤労動員の時、一緒に大学院に残った薄信一君と私は学生たちの先輩格だったので、二人がリーダーになって「東大社会科学研究会」という会を結成した。結成にあたって、たとえ名目でもいいから指導教授をきめて下さいと事務室から注意されたので、薄君と相談した末に大河内一男助教授のところへお願いにあがった。どうして大河内助教授を選んだかというと、北山教授では左がかった連中から右翼と思われて合意が得られないし、戦後、教授に返り咲いた大内兵衛教授一派の左翼学者では薄君も私も気がすすまなかったからである。結局、右翼と左翼の間を彷徨うハムレットみたいな性格の、強引さには欠けるが人のよい大河内先生に落ち着いたのである。
掲示板に結成大会を開く予告をすると、何と三百名もの入会者が集まった。みんなカチンカチンのマルクス・ボーイばかりで、マルクス・ボーイでなかったのは薄君と私の二人だけであった。
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