廖博士宅の食客を辞し、高級マンションに移る

王君が去ると、そのあとに今度は簡世強君がころがり込んできた。簡君は嘉義農林(かぎのうりん)の出身で農家の出だったが、面長で眉毛も濃く、しかも眼尻が釣り上がっていたので、動きの早い豹を連想させるような風貌だった。

香港・廖文毅邸に居候していた頃、簡世強君(右)と

生まれも私と同い年で頭の回転の速さも抜群で、着想も奇抜なら実行力もあって、作戦本部長が適任といった感じの男だった。あの頃、反政府的な思想の持主は台湾からなんとかうまく逃げ出して香港まで辿りつくと、必ずのように廖文毅博士を訪ねてきたが、簡君もその一人であった。
そういう食客が跡を絶たないことは、廖博士の人気のバロメーターであったけれども、家族たちにとっては迷惑なことであった。居侯の人数があんまりふえると、食事の時テーブルからはみ出してしまうことになるし、食事代の負担だってバカにできなかった。だから廖さんは、「来る者は拒まず、去る者は追わず」を原則として、居候に対してとり立てて親近感を示すことはなかった。決死隊員にでもなる覚悟でころがり込んできた若い人たちの中には、廖博士を冷たい人だと感じて、この家から出て行く人も少なくはなかった。
しかし、簡君は出て行こうとはしなかった。出て行こうにも、行く先がなかったこともあるが、何よりもお金を持っていなかった。その代わりこの家に居候を続けるためには、廖家の人たちからよく思われなければならないことを承知していたから、たちまち廖博士の秘書のような役割をこなすようになったし、またこの家に飼われていた五匹の犬を散歩に連れて歩く仕事も自ら引き受けた。本当は、犬の散歩係は私であってもおかしくなかったが、私は犬が嫌いで、犬にペロペロとなめられただけで身の毛がよだった。だから、廖博士が犬の散歩に出かける時も私は同行しなかった。その役割を簡君は買って出たばかりでなく、廖博士が犬の散歩のできない時は、その代役をすすんでやったから、だんだん廖博士に気に入られるようになった。
と同時に、簡さんは私にも近づいた。私が廖博士の片腕のような位置にいたせいもあるが、話し相手として手応えがあったせいもあろう。それに彼は私が小包屋をスタートさせて、やがて経済的に自活できるようになるだろうこともいち早く見てとっていた。だから、私が小包を送るに必要な商品の仕入れに行く時も、また荷造りをしたり、郵便局に持って行ったりする時も一緒に手伝ってくれた。

←前ページへ 次ページへ→

目次へ 中国株 起業 投資情報コラム「ハイハイQさんQさんデス」
ホーム
最新記事へ