ベルを押すと、すぐに女中さんが出て来て、鉄柵のカギをあけて私たちを二階の応接間へ案内してくれた。二十坪もあるかと思われる広い応接間で、部屋の隅のほうに東照宮の風景を刺繍した屏風が置いてあった。
「へーえ。この家の人は日本と何か関係でもあるのかな」と私が立ったまま眺めていると、スリッパの音がして、やがて六十歳くらいのばあさんが入ってきた。それがのちに家内になった苑蘭(えんらん)の母親だった。
娘に会いに来たのに、母親が出てくることはよくあることだが、娘を見る前にその母親のほうを先に見ることはそう悪いことではない。どんな別嬪さんのお嬢さんでも、あと何十年かたったら、こんな姿かっこになるにきまっている。それが自分にガマンできるかどうかを自問してから見合いに臨めば将来の安全度は高いわけだ。彼女のお母さんは、私に、二言三言話しかけた上で、趙太太に自分の娘の話をはじめた。
きくともなくきいていると、どうやらニキビのことらしい。肌をきれいにしたい一心で、親戚にすすめられて、イギリスか、フランスの化粧品を使ったところ、突然、ニキビが吹き出してしまった。これはたいへんと思って、医者にも注射をしてもらっているが、いまだになおらないでいると言う。
そんな話をしている最中に、娘のほうが入ってきた。顔を見ると、なるほどニキビが吹き出しているけれども、高校生によく見られるような、あんな花盛りのニキビではない。それでも母親がしきりに気に病むので、「ニキビなんて結婚したら、しぜんになおるものですよ」と私は口に出して言った。
まさかホルモンの講釈をするわけにはいかなかったが、それをしたくとも、当時の私の広東語ではうまく表現できなかった。ただ、私が気にしていない旨を述べると、娘のほうよりお母さんのほうが喜んでいた。
二、三日して、ピクニックに出かける彼女の一家の人たちと一緒に行かないか、と誘われた。私はのこのこと出かけて行った。彼女は私の車に乗ったが、車は全部で四台になった。はじめて彼女の父親や兄や兄嫁や姉や姉婿や妹に紹介された。私も兄弟の多いほうだが、向うも私に負けない大家族である。四台の車がすぐ一杯になった。
家族連れ立ってピクニックに行ったりすることは私の家でもよくやった。五月の端午の節句には家族中で運河まで龍船(ペーリヨンツン)を見に出かけたし、仲秋になると、月見のために台南公園で月のよく見える場所に陣取って、月見の宴をひらいたりした。しかし、行った先で、父親が薪を集めてきてみなの食べるご飯を炊き、ポータブルの蓄音器を鳴らしながら、子供たちにダンスをさせる光景ははじめての経験であった。よく「華僑は中国革命の母」と言われるが、大陸から外へ出たことのある中国人は思想的には中国人であっても、ライフ・スタイルは西洋流に馴染んでいる。
彼女の父親も若い頃、フィリッピンに行ったことがあるとかで、家族の雰囲気があけっぴろげで、台湾育ちの私には、目のさめるような新鮮さがあった。
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