しかし、中学部、高等部を通じて、当時の七年制高校で文学青年だった私も、東大に進む時は、文学部を避けて経済学部を選んだ。文学で生計をたてることは容易でないという実際家的な判断が私には若い頃からあったと見え、どうせ自分は台湾に生まれたのだから、将来、大学を出たら、上海あたりの国際都市にでも行って、コスモポリタン的な人生を送ろうとひそかに考えていた。しかし、途中で、日本の敗戦もあり、大陸における共産党政権の誕生もあって、上海に行くつもりが香港になったり、国際貿易にでもたずさわろうと思ったのが小説家になって生計をたてるようになったが、自分が過去において体験したことで、あとになって役に立たなかったことは一つもないといってよい。
学生時代に雑誌をつくった経験はのちに「話の特集」のたてなおしや美術雑誌「求美」の創刊、そして、最近は台湾における「財訊」誌の成功につながった。また、詩を書いたことは歌謡曲作家として、橋幸夫君の「恋のインターチェンジ」や三沢あけみさんの「南国の花」などを手がける時の役に立った。むろん、文学青年だったことが小説家になるきっかけであろうが、文学部に進まず経済学部にすすんだことが、日本経済の成長を予見し、株の神様(?)をつとめたり、お金儲けの神様(?)になるきっかけともなった。
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