「気晴らし」にも程度がある
ところが、「月も満つれば欠ける」の習い通り、イギリス人の栄光も盛りをすぎると、「情熱を燃やす仕事」よりも、「気晴らし」の方にますます重点がかかるようになり、遂に「働くのは気晴らしをするため」と考えるようになったかどうかは知らないが、働くことが軽んじられるようになった。ロンドンの朝は仕事のはじまるのが遅く、午後になると、もうアフタヌーン・ティーの時間がはじまる。いつ仕事をするのだろうと不思議に思うが、ある時、珍しく朝から人が集まって会議をやっているのが街路から見えた。珍しいこともあるものだな、とよくよく見たら、モーニング・ティーをやっていた、という笑い話もあるくらいである。
こういうのも、日本人から見たら、「間の抜けすぎた話」であって、物の軽重を転倒させた人生態度といってよいだろう。「気晴らし」とか「レクリエーション」とか「慰み」は必要なものであるが、それは一息入れる時間を埋めるものであって、仕事に情熱を傾ける時間をオーバーするものであってはならない。
さらに、もう一つ注文すれば、目先を変える時間を何に使うかによって、その人物のスケールや未来を占うこともできる。というのは、道草の食い方にも、要領があって、それが直接、仕事の上にはね返ってくるからである。
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