中国民俗研究家・上田尾一憲が語る、中国民俗の魅力

第39回
楊貴妃と玄宗のうらやまし〜い生活

中国四大美女の1人でもある楊貴妃は
唐の時代719年に蒲州永楽(現在の山西省永済)で
生まれたと言われ、父が幼い頃に亡くなり
その後、蜀の小役人であった楊家の養子となり
楊玉環と呼ばれていました。
玉環は、頭もよく、踊り、歌が上手で
おまけにスタイルも抜群で、
まさに絶世の美女と呼べる女性になり、
玉環が数え年で17歳の時、唐の6代皇帝玄宗の18王子、
寿王の正妃に迎えられました。
寿王は、次期皇帝候補でもあった訳ですから
玉環はその美貌と才能で
みごとに玉の輿に乗ることに成功したのです。
寿王の妃となった玉環には幸せな生活が訪れました。

しかし、楊玉環が寿王の妃になってから数年後
寿王の父、皇帝玄宗の妃である武恵妃が亡くなりました。
玄宗は武恵妃を寵愛していましたので、
その悲しみは半端なものではありませんでした。
悲しみに沈みながら、次の妃を探していたところに
目に入ったのが、亡き妃、武恵妃に良く似た
楊玉環だったのです。

玄宗はすぐにでも
楊玉環の事を自分の妃にしたかったのですが、
自分の息子の妻を奪った事が世間に
知られるとまずいので、
先ずは楊玉環を太真という名の女道士に仕立て上げ
太真宮(西安から東に30キロ)に住ませました。
玄宗は時間さえあれば、太真宮に行き
楊玉環と一緒に楽しい時間を過ごし、
そして、その何年か後に楊玉環を正式な妃として迎えいれ、
楊貴妃という名前になったのです。

その時、玄宗は61歳、楊貴妃は27歳だったそうです。
玄宗は楊貴妃を妃として迎えいれた後、
華清宮(西安)で仕事も何もかもほっぽらかしにして
楊貴妃、沢山の女官達と一緒に温泉に入ったり、
躍ったり、歌を作ったりと
それはそれは楽しい日々を過ごしていたそうです。

それにしても、かわいそうなのは息子の寿王ですね。
綺麗な妻を奪われたあげく、
皇太子にもなれなかったのです。


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