戦後十年たって、貿易立国で新たな道を模索しはじめた
あとになってふりかえってみると、昭和二十九年は戦後で最も労働争議の激しかった年の一つで、尼崎製鋼、私鉄総連、近江絹糸、日本製鋼室蘭、大阪証券取引所、とストが続出し、産業界の将来がどうなるのか、だれも先の読めない、難しい年であった。ストが多かったということは産業界に転換期が来ていたということであり、それまで日本の基幹産業として重要な位置を占めていた繊維、石炭、海運の業界が斜陽化の只中におかれた年であった。
近江絹糸騒動は、その移り変りを象徴する事件であり、社長の夏川嘉久次氏はジャーナリズムから悪逆無道の強欲資本家呼ばわりされた。しかし、悪逆無道なのは何も近江絹糸に限ったわけではなかった。
「女工哀史」が物語っているように、戦前の日本で繊維産業が成り立ったのは、そもそも安い賃金と過酷な労働条件が前提になっていた。繊維産業はどこもおしなべて似たような条件の下で成り立っていたし、そのなかで近江絹糸が少しばかり度を越していたというだけのことであった。すでに繊維産業は設備の大きさでも、生産技術面でも、一応の飽和点に達していたし、過当競争によって利益の出ない業種と化していた。
そうした過当競争のなかで、少しでも利益をあげようと思えば、賃金を低く抑えることと、過酷な条件の下で働かせる以外に方法がなかった。たまたまそれが近江絹糸という会社で露呈しただけのことで、実は低賃金と飢餓輸出で生き延びてきた戦前からの産業構造がすでに限界に達する時期が来ていたのである。
戦争が終ってからすでに十年目になっていた。
「あと百年たっても経済的に復興できないのではないか」と私に尻込みをさせた日本も、戦後十年たって早くも経済構造に変化の兆しを見せはじめていた。日本人が最も困難な環境を克服して、「生き残るための戦い」から「新しく生きていく道」を探しあてようとしていたのである。
日本人に残された生き残る道は、当時のスローガンにもあったように「貿易立国」に徹することであった。日本人は戦争前から軍艦も飛行機も戦車もつくっていたし、それだからこそ一戦交えてみる気を起したのだが、反戦とともに武器に関する事業は一切禁じられてしまった。日本人自身のなかにも厭戦、反戦ムードが強く支配していたので、そういう方面の事業は敬遠された。したがって、さしあたりやれることと言えば、安い原料を海外から輸入してきて、繊維や雑貨を加工し手間賃を稼ぐ仕事であった。
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