当然のことながら戦前からすでに実績のある綿や羊毛を輸入して繊維に加工する仕事がまず再開され、ついでナイロンやテトロンの技術導入をして、繊維の分野を化学繊維の分野にまで拡大し、輸出をふやすことであった。繊維ブームを象徴する形容詞として、当時は"ガチャマン"という言葉が流行した。織機をガチンと動かしただけで万のお金がころがり込むという、繊維業者にとってホクホクの時代が続いたのである。
その当時、私は香港に住んでいた。香港の布地屋は大半がインド人によって経営されており、店のなかは新しい商品で溢れていた。香港は自由港だから、世界中どこからでも何の制限も関税もなしに輸入ができる。
店に並んだ気のきいた模様の布地を選び出して「これはどこの製品?」ときくと、インド人はきまって「フランス」とか、「イングランド」とか答えた。大抵のお客はそれで納得をし、あとはいくらまで値切るかということに関心が移ったが、私は店先で箱から商品を取り出すのをジロジロ見ていた。どの木箱にもメイド・イン・オキュパイド・ジャパンと書いてあった。
「これ、ジャパンと書いてあるじゃないか?」
というと、「ノー。ノー。これは違う」とインド人はあわてて箱を運び去らせた。日本でつくられたものも香港から先へ行くと、たちまちフランスやイギリスやアメリカ製に化けた。まだその当時はメイド・イン・ジャパンにそれだけの人気がなかったのである。
しかし、そうした輸出のおかげで"ガチャマン"の時代が続き、日本の繊維産業は拡張に拡張を続けた。そしてついに低賃金で成り立ってきた繊維産業そのものが斜陽化する時代が来たのである。
ちょうどその時期、昭和二十五年六月から始まった朝鮮動乱で、アメリカ軍が韓国援助に乗り出すと、軍需物資の調達をすぐ隣接の日本に仰いだから、日本は特需景気が起った。それまでは武器と隣り合せの工業製品は一切、ご法度であったが、必要に迫られてアメリカ軍がトヨタ、日産、いすゞに軍用トラックの発注をした。財政再建のためにいわゆるドッジ・ラインを守らされ、金融引締めとストライキで息も絶え絶えだった自動車産業は一気に息を吹きかえし、繊維以外の近代産業が芽をふき、それが育つようになったのである。
「残された生きる道」を無我夢中で走っているうちに、「新しく生きていく道」に出てきた。
ちょうどその時期に、私は香港から東京へ舞い戻って文筆家への道を模索していたことになる。
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