やや過激な労働運動が日本を金持ちの国へと導いた
労働運動が象徴していた日本の自由さ
しばらくのあいだ、私は小説を書いて認められることに全精力を集中していたので、日本の国に何が起ろうとしているか気がつかなかった。二年目に運よく直木賞をもらって小説家として何とかメシを食っていけるようになると、私の目は小説が扱う人間関係よりも、日本の国全体の動きに気をとられるようになった。
直木賞をもらった直後の昭和三十一年四月号の『文藝春秋』誌に「日本天国論」と題して書いた小論文の一部をここに引用することをお許しいただきたい。
「私が日本の良識を持ち出したからと言って、私が手放しで日本の礼讃をしていると思わないでいただきたい。戦後の日本には殆んど解決の見込みの立たない問題が山積していることも、"輸入品"の民主主義がその実態に於いてお金のかかる、従って又国民の大きな負担になっている政治であることも私は一通り知っている積りである。にも拘らず、私が日本ほど自由に恵まれた天地はないと言うのにはそれ相応の根拠があるのである。
たとえば、戦後、日本では労働運動が合法化され、団体交渉権が認められるようになった。ビール会社や製紙会社の従業員はべース・アップのためにストライキを起して工場を停頓させることが出来るし、私鉄の従業員は電車やバスを自らの力で停めている。去年だったか、証券取引所の従業員が鉢巻姿で取引所の玄関に頑張って、株屋さん達を入れなかったのを私は目撃している。又三鷹事件の公判のあとで、共産党の連中がプラカードを手に最高裁判所を囲んでいたのを、私は実に奇異な気持ちにうたれながら見た。
若し私が日本以外の国を知らず、日本人の一人として生れていたら、私は無条件に労働者の立場に同情して"生きる"ためのこの闘争に賛成していたかもしれない。ところが、幸か不幸か、台湾に生れたがために終戦を機縁に日本国民でなくなった私の眼には、これらの出来事がさながら天国の出来事のように見えたのである」
「日本は自由の天地だと言った手前、私はなぜそうなのかと時々考えてみる。すると、どうもそれは日本が色んな勢力の均衛の上に立っているかららしいという気がするのである。たとえば労資の問題にしても、労働者側では資本家は横暴だと言うかも知れないが、労働攻勢を怖れない資本家は今の日本にはいないのではあるまいか。逆に労働者が横暴だと資本家は言うかも知れないが、国民の大多数が労働者である以上、最大多数の利益を無視するわけにはいかないであろう。
今後、労資両陣営の対立が色んな形で火花を散らすと思われるが、若し日本の国に危機と称するものが来るとすれば、それは労働者の側から来るというのが私の見方である。労働者が自分達の自由と利益のために団結するのは当然であるけれども、その努力が無限に大きくなって労資の均衡の破れた時は、労働者自身の自由と利益の失われる時だからである。尤もこうした危機は労働者がいつになってもテイン・エイジャアであるという前提に立ってのみ起り得ることだから、そう考えること自体が日本の労働者を侮辱することになるであろう」
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