「又、私は主として左翼陣営の人達が日本はアメリカの植民地だと批難しているのをきいてびっくりする。こんな連中が棲息する余地をもっていることが、我々の眼から見ると、既に日本は自由の天地だという証拠になるが、彼等にも彼等の存在意義がないわけではない。病気というものは切って捨てるよりも、気長に養う方が長生きの秘訣である場合が往々にしてあるからである。ところが、ジャーナリズムというものは"事を好む"のが取柄であるらしいから、"東京租界"などという大袈裟な表現がたいへんお好きである。不良外人が国際賭博をやったり、宝石商人の首を締めてダイヤを奪ったりすると、早速、東京は植民地になったと言って騒ぐ。実際には同じようなことが日本人の間で毎日のように繰返されているし、又似たような事件が世界のどこの大都市でも起っているのである」
「兎に角、所謂平和論者が存在している限り、彼等が日本をアメリカの植民地にすることから防ぐだけの力があるかどうかは知らぬが、日本がアメリカの植民地になっていない証拠にはなる。植民地ならば、彼等がとっくの昔に姿を消していると、かつて植民地に育った我々にははっきり断言出来るからである」
「つまり、私の言いたいのは、日本が国際的には真中より少し右の方にいるらしいとしても、東と西との中間にいて、程よい勢力均衡を保っているということである。獣と鳥の合戦以来、日本では蝙蝠は皆から爪はじきにされているが、蝙蝠の"蝙"は幸福の"福"に通じ、非常にめでたいものと中国では考えられている。事実、蝙蝠には蝙蝠の生き方もあれば、蝙蝠の幸福もある。殊に両軍が休戦状態にある時は、どちらからも引張り凧で、しかも、どちらにも頭をさげないで生きて行ける。国際政治の現段階に於いては、甚だ不本意であるとしても、つかず離れずということが小国にとって自主性を保持する唯一の方法ではあるまいか」
ついでに私は文化のことにもふれた。何を基準にして文化の高い低いを論ずるかはたいへん難しいことであるが、私はその国の人がふだん食べている食べ物と、お芝居(今日でいえば、娯楽、レジャー産業のすべて)と、それから女の人の家庭における地位の三つを物差しにすることを提案した。食べ物について私はこう述べている。
「銀座八丁目を歩けば、世界中のどんな料理でも食べられるとよく言われているが、これは日本人が味の点でも寛大で進取の気性に富んでいる証拠だと私は思っている。過去に於ける日本の料理技術は単純であったが、日本人は外国のそれを学びとろうとする精神を持っているから、今後第二の"天ぷら"や"すし"が現れるに違いない。ただ外国の文化を吸収する過程に於いて多少の混乱を免れないのは当り前であるから、我々はしばしば日本の"ライス・カレー"的食物文化に閉口させられることも事実である」
「しかし、好意的な解釈をすれば、一〇〇円のランチにコーヒーまでついているのは多分世界中にそうざらにはない筈であり、そのランチが些かお粗末にすぎるのは、日本人全体として貧乏に甘んじなければならない客観的経済状態、手っ取り早く言えば、皆の懐中が乏しいからである。日本人はすぐアメリカに比較して物を考え勝ちだから、自分達は貧乏で救いがないと思う傾向があるが、アジアには日本より遥かに低い生活水準に置かれている国が沢山あり、現在の日本人の所得水準で日本人と同じ程度の生活を享楽している国民に至っては絶無と言ってよいだろう。その意味で日本の文化が安ピカにすぎるのは、それだけ広く日本人の生活に結びついている証拠だと考えてもよいのではなかろうか」
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