たまたま私は日本に鉄鉱石を供給していた東南アジアの鉱山業者を友人に持っていたので、商談の成り立つ過程をつぶさに知るチャンスを持った。日本の製鉄業者は競争を避けるために、どこ産のどういう品質の原料はいくらで買うという価格協定を結んでいて、十セントでもよけいに払えない仕組みになっている。現地の業者が自分の山を見てくださいと頼みにくると、原料課のスタッフが調査に行って、詳しいデータを作成し、原価計算までガッチリやってしまう。運搬はどの海運会社を使い、LCはどこの商社がひらくか、といったことまですべて自分の関係会社に任せなければならないように仕向けてしまう。現地の業者が大儲けをするチャンスはほとんど残されていないと言ってよい。
また鉄鉱石の運搬船も、二十五万トンの船が最も経済的なことがあらかじめ計算されていて、製鉄会社の原料搬入用の岸壁もそれに見合って設計されている。そこからコンベアで自動的に高炉まで運搬できるし、できあがった銑鉄を隣接の冷延、圧延工場まで自動的に運ぶようにできている。そうやって製品にできあがったものを国外に輸出する場合も、すぐ岸壁から上げ下ろしができるようになっているので、原料の産地からかなりの遠隔地にあっても、原料のコストを低く抑えることができる。つまり原料の運び入れと製品の運び出しには、これより安価にできる体制はないという体制ができあがっているので、あとは加工技術と加工に従事する人々のレベルが問題になるのである。
加工技術について、日本では近代工業の素地はすでに一通り備わっていた。航空機でも、テレビでも、技術的、学問的にはある水準まで到達していたが、ただ戦争中の空白によって技術的におくれをとった分野が少なからずあった。この空白を埋めてくれたのがほかならぬアメリカであった。
もし、日本が今日のような手にあまる競争相手に育つことを予想できたら、はたしてアメリカが日本に手を貸してくれたかどうか、何とも言えない。日本商品にマーケットを開放してくれるどころか、技術導入にも素直に応じてくれなかったかもしれない。ただ、アメリカ人はそんな日が来るとは露思っていなかったし、それにもともとアメリカは多国民が集まってきてつくられた国だから、特定の国民に対して差別をするといった狭い根性は持ち合わせていなかった。強いて言えば、常に自分たちを世界のリーダーと思っているから、ソ連のような、自分たちと張り合う相手に敵愾心をもやすくらいのことであろう。もちろん、当時の日本はまだまだ駆け出しにすぎなかったし、戦に敗れてアメリカの占領下にあったから、日本が食っていけるように面倒を見てやることを自分たちの義務とアメリカ人は心得ていた。
ある時期、日本人は自分たちで新しい技術を研究するよりも、戦時中の技術的な空白を埋めるために、技術を導入するほうが手っ取り早いと考えていた。デザインのように視覚に訴えてマネることのできたものについては、猿マネとか、泥棒とか、さんざ悪熊をつかれたが、日本人は耳に栓をしてナイロンやテトロンの製造技術から、トランジスタ、ブラウン管の技術に至るまですべて技術導入にたよった。アメリカ人は会社ごと売ることに対しても何とも思わないくらいだから、技術を売ることに何のこだわりももたなかった。トランジスタのパテントを日本に売って、日本のメーカーがつくったものを一手に引き取って自社ブランドで売ることにすら何の抵抗も感じなかった。
鷹揚なアメリカの懐にとびこんだことが日本の成功のきっかけになったことは、この時代を生きた日本の産業人ならだれでも等しく認めるところであろう。
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