労働の生産性のあがる分野に労働者は集中する
では、日本人はどうやって労働資源の開発に成功したのであろうか。戦後、四つの島に九○○○万人の過剰人口を抱えたまま再出発した時点で、日本人自身が自分たちの労働力を立派な資源とみなしていたかというと、疑間であろう。過剰人口は労働予備軍を形成し、低賃金の労働力を提供してくれるから、資本家にとってはありがたい存在だが、そういう社会では資本家もまた資本の不足に悩み、つくった商品も思うように売れなかったから、資本家だけいい目にあったとはとても思えない。
国内で売れなくとも、国外に売れればいいじゃないかと思う人があるかもしれないが、国民の生活水準が低いときは、いくら指導しても、先進国の消費者を満足させるような良質の製品をつくれないものである。結局、自分たちよりももっと貧しい国々の人向きの商品を生産することになってしまう。現に戦前の日本製品は「安かろう、悪かろう」が常識だったから、主として中国大陸、東南アジア、インド、アフリカなどに輸出されていた。戦後もしばらくのあいだはその延長線上の生産を続けており、アメリカに売られるようになってからも、もっぱらスーパーの入口や階段脇の特売コーナーを定位置にした商売が多かった。もし日本人が「すぐれた経営」と「良質の労働力」を持ちあわせていなかったら、おそらく今もスーパーの同じコーナーで安物を売り続けていたに違いない。
それがそういう扱いに甘んずることなく、もっと高く売れる良質な製品へ、また同じ労働力を使って、もっと加工度の高い自動車やテレビやコンピュータなどの高次元の工業製品の生産へ移っていけたのは、日本人が労働力の生産性をあげることに努力してきたせいである。農業の場合は、もともと付加価値の低い分野だから、どんなに生産に拍車をかけても知れている。それでも人口過剰の続いていたあいだは、農業なりに生産性をあげる努力が続けられた。しかし、農産物はその国の総人口の一人一人の胃袋の大きさに制限されるから、必要量以上の供給をすれば、たちまち供給過剰におちいってしまう。そのうえ、わずかな付加価値ではとてもこれだけの人口を養いきれないことは誰の目にも明らかである。
それに比べると加工業は、最初のころは「安かろう、悪かろう」から出発したが、工場という狭い面積の中で多くの労働人口を収容できたし、それらの人々の賃上げ要求に応じていこうとすれば、もっと加工度をよくして、もっと品質がよくて、もっと高く売れる製品の生産に力を入れるよりほかなかった。もちろん、それは一日でできるものではない。またいきなり先進諸国の製品に追いつけるものでもない。いわんや高級品をつくってすぐにも先進国に売り込めるものではない。日々の精進が日本の工場ではくりかえされ、たとえば日本製力メラの優秀性がある日、突然、朝鮮戦争のルポ写真で広く認められると、それが契機になって爆発的な売れ行きを示すようになったように、人の気づかないあいだにグレードのあがった日本製品が次第に海外で人気を得るようになったのである。
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