人手不足が人手不足を克服する知恵を生む


大量生産が可能になることで生産性もあがり賃金もあがった

人のあまっていたころは、職をみつけるのが困難だったから、
誰も選り好みなどしておられなかった。経済がそんなに発展していなかった段階では、生産や流通の分野に就職口がすくなかったから、家事労働、すなわちお手伝いさんとか、庭番とかいった非生産労働に従事する人が多かった。アダム・スミスの時代にはそういう分野に就職する人がおよそ半分もいて、スミスは生産的労働と非生産的労働を区別して、経済の再生産過程におけるそれぞれの役割を論じている。
戦後の日本でも、高度成長経済がまだ始まっていない昭和三十年以前には、お手伝いさんを雇うのは割合に容易だった。各家庭では、奥さんが専従の家事労働者だった。ところが、工業生産が日本の主流になると、拡張につぐ拡張で企業が人集めをするので、家事労働者のなり手がいなくなっただけでなく、家庭の主婦までが、産業界から誘いをかけられて時間給の労働者に転出してしまった。「家内」というのがいなくなって、「家外」ばかりになってしまったのである。
まだ大して産業が発達していなかった時代は、機械が導入されると、仕事がなくなるというので、労働者が機械を目の敵にしたことがあった。手織機から電動機械へ移る段階で、イギリスの職工たちが叛乱を起した話は、今も産業革命を説明するエピソードとして語りつがれている。それというのも、市場は小さく物は一定量しか売れないものと思われていたからであり、また自分たちがつくった製品を貧しい自分たちが買えるようになるとは夢にも思っていなかったからである。
ところが、日本が世界の工業をリードする時代になると、様相は一変する。貧乏なことでは戦争直後の日本も、戦前と何ら変りはなかったが、当時の日本では、占領米軍の意向もあって、労働運動が許されるようになり、何かというとすぐ赤旗が立てられ、賃上げのためのストが日常茶飯事化するようになった。ききわけのない労働運動に頭を痛めた経営者たちは、時にはロック・アウトという強行手段に出たこともあるが、企業別労働組合の下で長期ストをやれば、同業他社を利するだけであったから、労働者の要求にも自ずから限界があり、その要求が許容範囲内にあれば、たいていは労資間で妥協が成り立った。そのために年々一○%、あるいはそれ以上の賃上げが続いた。賃上げによって豊かになった労働者たちは、自社製品のお客にもなったし、同じように他の生活必需品や耐久消費財のお客にもなった。その結果は、機械化が労働者を失業させるどころか、いくら機械を増設しても、需要に追いつかないほど市場が拡がっていった。賃上げが景気を刺激し、景気がまた賃上げの口実になったのである。

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