日本の役所は産業界の教育ママからなかなか卒業できない

税金の無駄遣いが避けられない日本の役所のシステム
国家財政が国民経済に深く立ち入って、景気対策はもとより、産業界の行政指導から福祉政策にまで関与するのは二十世紀後半における先進国に共通の傾向であるが、日本ももとよりその例外ではない。それどころか、日本は後発の資本主義国であったから、イギリスに対するプロシヤのように、戦前から保護主義的色彩の強い資本主義国であった。国家資本で始めた製鉄所や炭鉱を払い下げて民営に移したことも再三ならずあるし、民営の事業に対して国が嘴を入れることもしばしばあった。戦後になると、大蔵省は銀行や証券会社を、通産省は工業、流通業、中小企業を、また農水省は農業や水産業などをそれぞれその監督下におき、その保護育成に力を注ぐようになった。成長する産業について言えば、そのプロセスで外国資本によって買収されたり、繊滅されたりしないように防御する必要があったし、農業や石炭業のような斜陽産業については、コストの安い製品が流入しないように関所を固めておく必要があった。
一つの役所が保護したり、助成したり、補助金をあたえたりする分野をみつけ出してくると、どこの役所も仕事をつくることには熱心だから、あれこれ大義名分を立てて予算をつけるようになる。すると、負けじとばかりに他の役所も新しい仕事や新しい名目を捻り出して、予算をつける。管轄下の予算の多い少ないは、役所の勢力関係を示すものだから、他の省が予算をふやしていくのを指をくわえて眺めているわけにはいかないのである。一旦、予算がつくと、予算はその性質上必ず年度内にきれいさっぱり使われてしまわなければならない。使いきれずに残そうものなら、必要ないんだろうといって、次年度に削られてしまうからである。お役所には、私たちのふところのように無駄遣いはやめて、できるだけお金は残しておこうといった観念はまったくない。それどころか、予算は年々、ふえていく。ふやす必要のない場合でも、あれこれ名目をつけてふやしていく。そうしなければ、役所の発言権が低下するし、今の次官や官房長官は無能な人間だとレッテルを貼られてしまうからである。
かくて米ができすぎて減反させるのにも補助金を払う、ミカンができすぎてミカンの木を切るのにも補助金を出す、私学が授業料を上げかねて赤字になったのにも補助金を出す、生活に困らない老人でも電車やバスに乗るためのただのパスをくれる、と至れり尽せりの予算が組まれる。一つの省が競馬を管轄下におけば、もう一つの省が競輪を自分たちの管轄下におく。するとまた別の省が競艇は俺たちにやらせろ、と一省ずつ仲よくバクチの胴元になる。それらのあがりからぶんどった予算がどんな無駄な施設に化けているかをみたら、税金を払うのがバカらしくなるほどの衝撃を受けるに違いない。
高度成長が続き、同じ税率を適用しても自然増収の見込めたあいだは、そういう欠陥はほとんど目立たなかった。一般民間企業よりずっと待遇の悪かった公務員の給与は年々改善されたし、役所の建物をはじめ、地方の文化会館や公民館に至るまで新しく建てなおされた。もともと日本の官僚制度はアジアのほかに類例をみないくらいすぐれたものであり、汚職もあまりみられなかったが、公務員の待遇が民間企業にひけをとらないようになってからは、政治家の汚職だけが際だって目立つようになった。公務員の汚職がゴルフや酒食の饗応を受けたとか、とるに足らない額の金銭を授受したとかいった程度であるのに比べて、政治家のそれが億単位であったりするのは、選挙にお金がかかりすぎることと関係がある。しかし、政治家の場合も、私腹を肥やす人は少なく、派閥の維持や地位の確保に使われることが多いから、全体としての日本人は公私の区別のはっきりしたきわめて清潔な国民性であるといってよいだろう。
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