援助は原則にのっとって紐つきですべき
一方に食うや食わずの国があり、もう一方に飽食の国があれば、「飽食の国の人々は飢餓の国の人々を助ける義務がある」という倫理が成り立つ。たとえ怠惰と無知のために飢餓に迫られた人々であれ、寝食忘れて働いた結果、金持ちになった人々は、宗教的な精神を持ってこれらの国の人々を救済しなければならないといわれると、知らん顔はできない。戦後のアメリカ人は、自分たちが世界のリーダーになった以上、貧しい国々の人々の困難を解決するために、金銭的、物質的に援助する義務があると考え、マーシャル・プランをはじめ、さまざまの無償援助をやってきた。援助の中には、発展途上国に代理戦争をやらせるための軍事援助も含まれており、かえって迷惑ということもあったが、日本のようにアメリカの援助によってピンチから立ち直った国々もまったくないわけではない。しかし、莫大な援助をやった結果、アメリカが相手国から受け取ったお返しは、「ヤンキー・ゴー・ホーム」ということであった。でなければ、援助を「神のお恵み」と考え、「もっと神さまのお恵みがありますように」と臆面もなく手をさしのべる人々か、経済開発を口実に外国からの援助をとりつけ、そのあいだに介在して私腹を肥やす支配階級をかかえた国々であった。そうした国の人々は、お金の出所がアメリカから日本へ移ったことを目ざとく感じとっており、日本の天皇の御大喪があれば、大統領から首相までトップをぞろぞろひきつれて東京詣でにやって来る。
おかげで、日本の政府開発援助(ODA)は年とともにふくれあがり、八九年度でついに一兆三六八九億円と年間で一○○億ドルのペースとなった。この金額はアメリカの八六億ドルを上回る世界最大のスケールであり、日本の援助がそれぞれの国の受ける援助のトップを占めるようになった国々が二九カ国もあるようになった。援助の内容は、低利の借款もあれば、無償の贈与もあり、すでに贈与比率が四七・三%にも達しているのに「他の先進国より低い」とか、「日本人には援助の哲学がない」とかいわれている。貰うほうから言えば、まことに虫のよい話で、「金持ちになれば、奉加帳のトップに大きな金額を書くべきだ」くらいのことはわれわれでも常識として心得ているが、「乞食にお金をバラまくようなやり方がはたして援助哲学なのであろうか」という疑間は最後までついてまわる。
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