第48回
株で資産を創った人は(1)
昭和13年(1938)ころの話。
S学園の自宅に「株屋のキリカエさん」
というお客さんがよく見えて、家族の一員のようでした。
山崎が小学生の頃でした。
母が外出中だと「坊ちゃん、キャッチボールしましょうよ」
と遊んでくれました。
それから15年、銀行の営業係となりました。
初仕事が兜町の証券会社を回る集金でした。
「坊ちゃんじゃありませんか」の声に、驚いて振り向くと、
あのキリカエさんでした。
コーヒーをご馳走になり
「ご家族の皆さまはお元気ですか」と問われ、
「お宅のお母様は株がお上手でした、ちっとも、欲張らない、
まだ上がりますよ、と申し上げても、
{底で買って、天井で売れ、と教えられたバッテン、
そがんことはデケン、株は腹八分でよかよか、
金は天下の回りモノ}
長崎バッテン言葉で笑い飛ばされました。豪快でした。」
初めて聞く話でした。
疎開先で父がなくなり、戦後の混乱の時期、
農地改革による財産実質没収、
加えて、財産税、相続税など税務署との折衝、
家を処分し、一家を率いての再度上京、
母の奮闘振りを横目でみて、
どこに、そんな、たくましさがあったのか、
火野葦平「花と竜」の舞台、港町九州若松の生まれのゆえか。
東洋経済、ダイヤモンド誌に目を通す、
明治26年生まれの母の姿。
株式投資を通じて学んだ、その知識と知恵が、
あの戦中・戦後の困難な時代を、
女手ひとつで切り抜けた行動力の基になっていたのかも、
とキリカエさんの話で気がつきました。
保守的な銀行では株の話はタブーでした。
戦前はもちろん戦後も、
つい最近までは、行員で株をやってる人も、
それを公言する人は稀でした。
証券会社を株屋といい、古い人は相場師と呼ぶ時代でした。
その後
「銀行さんよ、サヨーナラ、証券さん、こんにちは」
こんなコマーシャルが流れ、
銀行は、証券をライバル視する時期さえありました。
その銀行が数年前から、証券会社と提携し、
窓口で投資信託を勧めるようになったのですからね。
(続く)
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