目標は「中金」持ち!

第4回
本当の教科書は過去の文献でなく、現に起こっている現象

私は大学では「経済学」を学んだが、
職業としては「文学」を選んだ。
「文学」というと「国文学」とか「英文学」とか「仏文学」とか、
難解な古典を読破したり、
豊富な外国語の知識を要求される学間を連想しがちである。
そういうジャンルの学問も、
もちろん、学問に違いない。
子供のときから「文学」が好きで、文学書を読みふけり、
大学へ行くようになってから
文学部に入学したりする人もたくさんいる。

しかし、私のいう「文学」とは
自分の思想を文字で表現する創作活動のことであって、
先人の思想の註釈をしたり、
批判したりすることではない。
そういう創作活動を職業とする人にも、
過去の「文学」に対する知識はある程度必要であるが、
あまり過去にとらわれたりすると、
独自の路線を打ち出すことができなくなるから、
極端な言い方をすれば
「文学」という過去の知識はほとんどなくてもかまわない。

その証拠に第一線で活躍している小説家や評論家の中に、
いわゆる文学部出身はあまり多くない。
ペンでメシが食えるためには、
専門の職業教育を受ける必要がなく、
この意味でペンの世界は
シロウトにひらかれた自由自在な職業であるということができる。

世界ペンクラブというのがあるが、
これはペンで生計を立てている人の集まりだから、
ペンクラブと呼ばれていると思うかもしれない。
そう解釈しても、むろん、間違いではない。
しかし、本当はPOEM、ESSAY、NOVELの頭文字を
寄せ集めたものだそうで、
「文学」を表現する形式が
この三つに分かれていることを物語っている。

つまり人間の思想や物の見方を文字で表現したものなら
すべて「文学」であり、この三つのどの表現形式をとっても、
多くの読者をつかみ、感激させることができれば、
それは立派な「文学」であると私などは思っているのである。

だからセックスにまつわる人間の情緒や心理的葛藤が
「文学」のテーマであるとすれば、
金銭にまつわるそれも同じように
「文学」のテーマであっても少しもおかしくない。
現に徳川時代には井原西鶴という先達がおり、
『好色一代男』とか『男色大鑑』とかいった
色恋の本を書くと同時に
『日本永代蔵』のような
欲得に焦点を合わせた名著もあらわしている。

私はたまたま日本経済が成長期にさしかかる時点で
ペンをとる職業についたので、
最初は色恋の本を書いたこともあったが、
すぐに、どうやって金銭に焦点を合わせるかに
頭を使うようになった。
金銭や事業を「文学」のテーマに選ぶとすれば、
お金のあとを追って成功した人々の話を書いてもよいし、
それらの人々の心理の奥に立ち入ってその心理的な
矛盾をついてもよい。
また過去においてそうしたジャンルの偉業を打ち立てた作家たちの
註釈をしても、職業としては成り立つであろう。

しかし、私は註釈学や人物論も、実際に手がけたことがあるが、
自分は創作肌の人間であると思ったので、
現に私たちの生きている社会の移り変わりをとらえる方に
より多く興味を感じた。
つまり私の教科書は過去の文献ではなく、
現に社会で起こっている現象だと考えたので、
出発点を身近なところにおく必要を感じたのである。

「経済学」から出発した私の友人たちは
たいていマクロの経済学から始め、
今でも国家予算とか、国際経済とか、
世界の金利動向などをさかんに論じている。
私は「文学」は人間の
一人一人の心理に立ち入るものと思っているので、
もし「経済」や「お金」をとりあげるとしたら、
自分のふところから出発すべきだと信じて疑わなかった。





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2013年11月15日(金)

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