第28回
結婚は人生最大の賭け
社会的風潮のおかげで、近来、
とみに増えたのが離婚である。
アメリカでは二組に一組が離婚、
日本では四組に一組が離婚というのが統計数字だそうだが、こ
ういうことになったのも、
1つには女性に職場があるようになって
経済的に自立できるようになったからであり、
もうーつには人生八十年の時代になって、
ガマンしているうちにすぐ終わりになった人生が
さらに二十年も延びたために、
間違った結婚をやりなおすだけの
時間的な余裕があるようになったからである。
しかし、戦前なら一生連れ添うのが常識だった夫婦が、
どこで打ち切りになるかわからないことになると、
お互いの感情の整理も容易なことではないが、
子供のことや住んでいる家のことや夫婦共有の財産のことや、
さらにはまた事業をやっている人なら
慰謝料の捻出のために事業にヒビが入りかねない心配も起こる。
そのどれーつをとりあげても、
決して人生のプラスにならないことばかりだが、
それを承知であえて夫婦別れをするということは、
どんな犠牲を払っても、
一緒にいるよりはましだというギリギリのところまで
追い詰められているということであろう。
アメリカの離婚訴訟を見ていると、
たとえ非が女性のほうにあろうと、
裁判をすれば、裁判官はきまって女性の味方をするから、
亭主は財産の半分を別れる妻に与える覚悟をしなければならない。
持ち家があれば、男のほうが
家を出ていかなければならないのは常識になっている。
これが自分で事業をやっている人になると、
財産の大半は事業に注ぎ込まれているから、
慰謝料を払うためには、自分の持ち分を他人に譲るか、
無理を承知で新しい借金をしなければならなくなる。
離婚をするたびに、一つの煉瓦を
半分に割るようなことをしなければならないとしたら、
事業をやっている人だって
腰を落ち着けてじっくりと取り組んではおれなくなるだろう。
アメリカの経済がここのところ好調なように見えるけれども、
離婚の風潮がおさまらない限り、
ひび割れした煉瓦を積み上げた摩天楼にすぎないと私は見ている。
アメリカ人のなかにもそういうことに気づいて、
これではいけないと思っている人は多い。
もともとアメリカには宗教的な
戒律を守っている敬虔な精神の持ち主は多いし、
そういう人たちは猖獗する離婚の風潮を苦々しく思ってきた。
それがいよいよ限界に達して、
チフスやコレラと同じように
狼藉の限りを尽くすと自然におさまってくるように、
ここへきて、「女性よ、家庭に帰れ」
という動きが見えはじめてきた。
家庭に帰ることが女の幸福であるという結論に達するまでに
ずいぶんと回り道をしてきたが、
もちろん、これが唯一の結論ということでもないし、
仮にそうなったとしても、
女性にこれだけ経済カがついた今日と昔々とでは
家庭内における地位は全く同じということは考えられない。
しかし、「うまくいかなければ別れればいいじゃないか」
という前提で結婚するのと、
「なるべくなら一生、この人と一緒に暮らしたい。
途中でやりなおしはできないのだ」という覚悟をして
配偶者を選ぶのとでは
自ずから気構えが違う。
失敗とわかれば、もう一度出直すことは、
どんな苦痛を伴うことであっても、
やらなければならないことであるが、
安易に出直しができると考えるよりも、
男も女もこれで一生が決まりだと考える方が
失敗が少ないこともまた確かであろう。
人が自分の配偶者としてどんな相手を選ぶかは、
昔から「えにし」といわれているように、
そういうめぐりあわせになっているとしか
いいようのない不思議なところがある。
だから、目に見えない糸によってつながれているとか、
一つの形になっているものが
二つに割れて別れ別れになっていたのが、
ある時期にどこからともなく近づいて1つになるとか、
いろいろな解釈が行なわれている。
もしそうだとしたら、何の努力をしなくとも、
自然に任せておけばよいことになるが、
一生を共に暮らす相手を見つけるということになれば、
まさかそんなのんきなこともいってはおれないだろう。
私は男だから、男の立場からいえば、
どんな女にめぐりあえば一生の不作になならないですむかは、
人生のこれからを決める一大事である。
「良家の子女である」とか、「眉目うるわしく情けある」とか、
「気立てがよくて愛矯がある」とか、
数えあげればキリがないが、
何といっても、一番肝心なことは、
気が合うとか、肌が合ううとか、
そばにいるだけで充実感を抱く相手だということであろう。
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