伏見緑さんが語る「あなたの知らないドイツ」

第187回
さぁ、見合って…八卦良い!

欧州社会では、人間主義にのっとって、
いつでも誰でも、
「個人の意思を明確に言葉に表す」ことが大事だ、
欧州で「生きていくための必須事項」だ、
とお伝えしてきました。

この人間主義を、裏返してみれば、
「全く自由な意思を示さず、モノ言わぬ」ことが、
どれほど「自分の命を守るための全て」であったか、
皆がその過去に経験している恐ろしさも
示唆しているのでは、と思います。

何もかも忘れたように華やかに見えても、
実は、欧州のほぼ全ての国に、
この恐ろしい時代の経験が繰り返しあります。
しかも、そう遠い昔の話ではありません。
ドイツの多くの人々にとっては、
ごく最近までそうでした。
「個人の意思を自由に表せる」ことは、
どれほど人間にとって大事なことかと、
認識されている様子が1人1人に強くあります。

ですから、意思を示そうとしているときに、
相手がその意思を「知ろう」と関心を
示してくれるのは
大変有難いチャンスです。

これを見極めきれないまま、
「ここは外国だから、
自分の意思を明確にするのが当然でしょ!
私には言う権利があるのよ!」と
闇雲な話をしようとすると、
後で手痛いしっぺ返しを受けます。

「私は話すよ」、
「ああ、聞くよ。聞くからには私の話も聞いとくれ」、
「ああ、いいよ」と、
「互いにフェアな場」があるか否かを
双方、素早く察知します。
日本では意識しなかった感覚なのですが、
ここでは大変重要です。

それがないと欧州ではどうも
「互いにフェアな話し合い」にはなりません。
まるで、相撲で双方の力士が土俵に上がり、
塩をぱっと撒いて、さあさあ…
「見合って、見合って!八卦良〜い!」
と行事が間合いをキリリと決める瞬間に似ています。
「互いにフェアな場」ができると
そこで初めて「話し合い」が始まります。


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2008年1月14日(月)

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