伏見緑さんが語る「あなたの知らないドイツ」

第229回
ヤツェク・コルトゥス氏のショパン

ヤツェク・コルトゥス氏のショパンの
ピアノ・コンサート(第228回)は夜8時の開演でした。
帰宅してから服装を改め、軽く腹ごしらえして、
良い気分でゆっくり出かけるのに、ちょうど良い時間です。

ホールには、高さ50センチほどの小さなステージに、
グランドピアノが構えるほかは、
客席として椅子がぐるりを取り巻いているだけ。
日本の立派な公会堂に比べると質素です。

来賓客の中には、ヘッセン侯の姿が見えました。
皆と一緒の客席にお座りです。
ヨーロッパの若い芸術家は、重厚な歴史に裏打ちされた、
目も耳も鍛錬されている方の前で
腕を振るう機会に恵まれていて幸せだな、と思います。

ステージにあるピアノは、「スタインウエイ」。
その日の若いピアニストとの組み合わせでは、
このピアノは、まるでドイツ人好みの、
ベンツの高級仕様のスポーツカーのようでした。
黒々と輝くスタインウエイの音色を
今日は、心の底から楽しめそうだと
誰もが、にこにこしながら客席を埋めていきます。
小さなホールいっぱい、300人ほどが集いました。

そして、1曲目のノクターンが終わる頃には、
お客もこのピアノも、会場の全てが彼の手中でした。
あとは、加速に任せて、うんと疾走するのみ。

疾走スピードをぐんぐん上げ続けているのに、
見えてくる景色のなんと雄大なこと!
これでもか!というほどの艶のある歌いっぷりで、
6曲目のポロネーズに至り、最高潮に。

目で見えるものなら、シュッと疾走する車の影が、
視界から完全に消え去るまで、
目を凝らして見続けていたい、と思うでしょう。
それと同じくらい、消えていく音の最後の最後まで、
耳の中に捕らえ続けていたい、と思いました。

CDなら再生ボタンを、たった1押しするだけなのに。
全てのプログラムが終わったとき、
誰もが、そうはいかないのが分かっているので、
なおのこと、名残り惜しさのあまりに、
会場には深い溜め息が溢れました。

その気持ちはよく分かっていますよ、とばかりに、
ヤツェク・コルトゥス氏は、アンコールに応えて、
プログラムの中の一片をさらりと弾いてくれました。


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2008年4月21日(月)

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