中国って、本当のところどうなの?

第66回
雲崗石窟に日本人の残した足跡が

昨日からの続きです

伊東忠太が初めてここを訪れた時、
宗教心の薄らいだ当時の中国において、
雲崗石窟は存亡の危機に瀕していました。

近隣の炭鉱からくる石炭の粉塵にまみれ、
多くの石仏には埃が積もり、
石室は近隣農民の「農具置き場」や
「トイレ」として使われていたものもあったそうです。

また、「売れるモノはなんでも売る」中国らしく、
移動可能なサイズの石仏は壁から削り取られ、
国内外に流出したものも少なくありません。

欧米の博物館にも、
この雲崗石窟から削り取られた石仏が
幾つも点在しているといいます。

現在、山西省大同市の
大切な観光資源として残る雲崗石窟は、
数奇な運命を辿っていました。

価値の分からなかった
現地の中国人には手荒く扱われていたのですが、
外から来た「日本人」らの手によって、
調査・研究がすすみ、
1937年の日本軍による大同市占領後も、
継続して保護の対象になっていたそうです。

第2次大戦中、
アメリカが日本の京都を激しく空爆しなかったのは、
重要な戦時ターゲットがあまり無かったことに加え、
「Kyotoには、超クールな寺がある」
という理由も大きかったことでしょう。

普段、なにげなく接している現地人よりも、
外国人の眼は、国内外での差異を捉え
価値を見抜けることがあります。

通常、戦争は破壊をもたらしますが、
雲崗石窟が守られたのは、
皮肉にも敵国の日本による関心が高かったからなのです。

日本軍の占領下、
京都大学の水野清一らによって、
雲崗石窟の調査プロジェクトは完了されました。

このプロジェクトは、
軍や財界のサポートも集めたものであったそうです。

冬の寒さが厳しい地であるため、
作業のしやすい夏場、
1938-1944年の7年間にわたって実施されました。
延べ日数では1年を超える
大型プロジェクトだったといいます。

主要な石室を全て実測して
見取り図をつくったばかりか、
51,000体もの石仏の多くを
写真に収めるというものでした。

勿論、戦争・侵略は決して看過できるものではありません。
しかし、石窟に魅了された日本人がいなかったら、
現地の中国人の手によって、
この世界遺産は、荒れ果てていたかもしれませんね。


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