死に方・辞めかた・別れ方  邱永漢

去り際の美学

第50回
人生のしあわせとは

人間の行動には必ず「目的」があり、
それを達成するための「手段」が必要である。
たとえば、人は何のためにお金儲けをするかというと、
生活をして行く上でお金が必要だからである。
それならば、生活に必要なだけのお金が貯まったら、
もうお金儲けはしないかと思って見ていると、
やめるどころかお金儲けにますます熱が入る。

「お金儲けが面白いから」だとか
「お金持ちになると、世間の待遇が違うから」だとか、
あるいは「お金があれば、もっとよい生活ができるから」だとか、
理由はいくらでも考えられるが、「手段」だった筈のお金儲けが、
いつの間にか「目的」にすり替わってしまったりする。
これでは一生を何のために過ごしたかと聞かれたら、
お金儲けのために過ごしたと答えるより
仕方のないような一生になってしまう。
実際、そういう生き方をしている人は多いのである。

お金儲けとまで行かなくとも、
学校を出て就職をする人の動機を考えてみるだけでもよい。
何のために就職をするのか聞いてみると、
大抵は、生活の手段を得るため、
つまりサラりーをもらうためだと答える。
それならば、
サラリーの多いところに求職者が集中するかというと、
サラりーが多ければ、希望者が増えるという面も確かにあるが、
(一) 将来性があるか、
(二)世間の聞こえがよいか、
(三)自分の好きな仕事であるか、
(四)自分の専門の仕事であるか、
といった別の動機も働くから、
必ずしもサラリーだけに左右されるとは限らない。

むしろ、最初は生活の手段を得るつもりで会社に入ったが、
そのうちに働くことが面白くなって、
それ自身が目的にすり替わり、
サラりーをいくらもらうかは
さして重要な条件でなくなってしまっている。
組織の中で働くサラリーマンは、
報酬が働きに見合わないのが普通であるが、
それでも、寝食を忘れて働く人がいる。
こうなると、人は必ずしも金銭的な報酬を目的として
働くものでないことがわかる。

お金儲けに夢中になる人を、
目的と手段を主客転倒した人だといって
批評することは容易である。
お金をたくさん持っているのに、
もっと欲しがるなんて全く欲張りだなあ、と笑うこともできるし、
せっせと貯めるだけでとうとう一生使わなかったのでは、
お金の奴隷をつとめただけじゃないですか、
と指摘することもできる。

しかし、手段が目的になってしまったからといって、
その人が人生を楽しんでいないとは必ずしも断言できない。
楽しいか、楽しくないかは、主観的な間題で、
働くことのなかに楽しみを見出すことができたら、
儲かったお金がそのあとどうなろうと、
極端に言えばどうでもいいことなのである。

したがって、働きたくとも働くところがないか、
働くことは働いているが、意にみたない職場であるとか、
要するに、失業するとか、労働意欲を失うとかいうことが
間題であって、手段が目的に変わろうと、
目的が手段に変わろうと、他人に迷惑さえかけなければ、
別にかまわないと思う。
そういう人は、人生のしあわせのうちの
少なくとも一つは発見できた人ということができるであろう。





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2012年1月26日(土)

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