死に方・辞めかた・別れ方  邱永漢

去り際の美学

第81回
范蠡の見事な出処進退

出処進退ほど難しいものはない。
さきに、 何歳くらいで死ぬか、予め決めておいた方がよい
と言ったが、それは心の準備のためであって、
自殺でもしない限り、
まさか自分の死期を自分で決定することはできない。
その点、出処進退は、周囲の事情も、もちろんあるけれども、
大体は自分で判断し、自分で決めることのできるものである。
実はそれだけに、一番難しいと言うこともできる。

歴史上で最も出処進退の鮮やかだった人は恐らく范レイであろう。
范レイは越王勾践に仕えて、
二十年の深謀の末に呉を減ぼして会稽の恥をそそぎ、
勾践を天下の覇者たらしめた。
しかし、范レイは勾践の性質を熟知していたし、
世間の自分に対する評価が高くなりすぎたら、
身が危ういと思ったので、
それをしおに一切の官職を辞し、一族を連れて斉へ行き、
姓名を変えて鴟夷子皮と称し、
海畔を耕して、間もなく数十万の財をなした。

斉の人はその賢を聞き及んで、宰相に任じたが、
本人はそれを喜ばず、宰相の印を返し、
その財のすべてを知友郷党に分けあたえて陶へ行った。
陶(今の山東省定陶県)は、当時の天下の中心で、
商業交通の栄えたところであり、
苑レイはここで、陶朱公と称して、
商業に従事して再び巨万の富を築き、
あまねく天下にその名を誰われたーという。

『史記』におけるたったこれだけの記述を見ても、
范レイという人物の輪郭が窺われる。
先ずこの人は、人間の心理というものをよく心得ている。
封建時代は、上にまだもう一人、仕える人がおり、
この人が生殺与奪の権を握っていたが、
これは今日の「世間の眼」
という言葉に入れ替えても同じことであろう。

人は、権力が大きくなりすぎても、
財力がありすぎても、また人気がよくなりすぎても、
嫉妬されて身に危険が及ぶ。
それをかわそうと思えば、
権力や財力や人気を自ら捨て切ればよい。

第二に、この人はかなり思い切りのよい人である。
ふつう社会の頂上まで昇りつめると、
自分の地位や名声を維持するために
汲々とするのが当り前で、
自ら築いた物を投げ出すようなことはしない。

それができるということは、よほど自信があるか、
現世的な欲望に恬淡な人であるか、のどちらかである。
恐らく、そのどちらの器量も持ち合わせていた人であろう。

第三に、多才の人である。
政治に携わり、戦争に臨んで
勝利を収める才能も持ち合わせておれば、
農業に従事して開発にも成功している。
かと思えば、商業に従事して巨万の富も築いている。

三たび築いた財産を三たび他人に分けあたえても、
また再び大金持ちになれたのだから、
理財の才が身についていた人であると言うことができる。

これだけの才能を持っておれば、
人間は当然、自らにたのむところがあるし、
地位や財産に恋々としたりはしない。
したがって権力に対しても、金銭に対しても、
免疫体質になっているから、
身に危険が及ぶことがなくなるし、
人に讃えられて見事な人生を全うすることもできる。

主君であった勾践に比べても、
決して遜色のない一生であったと言ってよいだろう。





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2012年2月26日(火)

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