最近、盛んに新聞紙上を賑わしている貸レコード屋に対する賛否についても、ほぼ同じ結果が予想される。貸レコード屋に反対する人々は、貸レコードがテープにコピーされて売上げのガタ減りしているレコード・メーカーであり、それに伴って印税の減少する作詞家や作曲家たちである。レコード会社が作詞家や作曲家たちを表面に立たせて、著作権の侵害であるとわめき立てているが、世間の反応は必ずしも、レコード会杜に同情的ではない。
まず第一に、LPレコード一枚二五〇〇円は高すぎると誰でも思っている(海賊版の多い台湾では、一枚三〇〇円、ちゃんと著作権料を払っているものは一枚六〇〇円で売られている。)第二に、貸本屋があるように、貸レコード屋が現われて当然だと思っているし、第三に、貸レコード屋からレコードを借りた人がコピーするために借りているとしても、コピーがレコードを買うよりも安くできる以上、コピーされるのはやむを得ない、と考えているからである。
新しい生産手段が生まれてきたのに、それを頭から否定してかかるのは一種の時代錯誤である。好むと好まざるとにかかわらず、社会がそれを受け容れるようになることは明らかであるから、むしろそれを前提として、新しい生産過程や流通システムを案出するのが実際的な対策であろう。現にレコード会杜が貸レコード屋を相手に訴訟をすれば、テープにとったほうがトクだということがあまねく知れわたって、レコードを買う人はいっそう激減するだろう。ちょうど銀行が郵便局を目の敵にして、郵便局は脱税の手伝いをしている、と攻撃したために、郵便局の有利なことがあまねく知れわたり、預金が大量に銀行から郵便局に移動したのと似ている。
裁判をしても、最高裁まで行って最後の決着がつくまでに十年はかかるだろうし、十年もたつうちにテープにコピーすることが常識化して、裁判をしている意味が失われていることだろう。いや、そもそもレコードの売上げが激減することによって、レコード会社が軒並み採算割れになり、はたして裁判の決着がつくまで持つかどうかのほうが疑問であろう。
レコード会社は戦前はビクター、コロムビアと天下を二分して結構、大きな会社であったが、戦後は、いずれも独立独歩では成り立たなくなり、一社の例外もなく電機メーカーの資本系列に入ってしまった。今やそれもあやしくなり、再び核分裂するところまできてしまっているのである。
新しい情勢に適応できなくなった企業は皆、没落の危機にさらされているといってよいだろう。
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