高利貸もラクじゃない
期日が迫っているのに金ぐりのつかない人が、最後に手を出すのは高利貸の金である。高額脱税の記録保持者として長く新聞紙上を賑わした森脇将光という人に『午後二時五十五分の客』という著書があるが、あれは銀行の営業時間の終わる午後三時を目睫にして、不足する金を借りに駆け込んでくる人々のことであり、俗にトイチとは、そういう人の弱みにつけ込んで十日間に一割の高利で金を貸す高利貸の利率のことである。
十日間に一割、十日たつたびに複利で計算すれば、一カ月で三割三分一厘の高金利を払うことになる。こんな高利でやっていける事業がこの世にあるわけがない。にもかかわらずヤケドを承知で火の中に手を突っ込むようなことをやるのは、不渡りをたとえ一日でも先へ延ばしたいという、切実な要求があるからである。
いったん高利貸の金に手を出すと、それが発端になって借金が雪だるま式に膨れあがり、十中八、九までは再起不能におちいってしまう。だから、高利貸の金に手を出すくらいなら、その前に整理にかかるにこしたことはない。しかし倒産寸前まで追い込まれた人は、前後の見境いがつかなくなっているから、高利貸の玄関を避けて通れる人は至って少ないのである。
月に三分どころか三割もとるような高利貸は、どうせロクな死に方はしないだろうと私たちは思う。しかし高利で貸すほうの人も、およそ自分のところへ金を借りにくる人は皆、金に困っている人だから、貸した金がはたして回収できるものかどうか、借りた人以上に気をもむのである。もしそうでなければ、この世の中で高利貸より金の儲かる商売はないから、世界中の人が高利貸になっているだろう。それがそうならないのは、高利貸が、「恥多き商売」であるばかりでなく、高利の金銭貸借にトラブルが多くて、なかなか思ったような業績があがらないからである。
私が有名な高利貸の森脇将光氏を日本橋にある「森脇文庫」と称する事務所に訪ねて行ったのは、たしか昭和三十六、七年の頃であった。昭電事件をはじめ、およそ政界とのつながりのある疑獄事件には必ず顔を出す人だから、おそらく高利貸としては、もっとも巨額の資金を動かせる立場の人であろう。「変わっているし、面白いから、いっぺん会ってみたら」と友人にすすめられて訪ねて行ったが、いまでもはっきり記憶に残っていることが二つばかりある。
一つは、当時、森脇文庫で出版をやっていて、前記の『午後二時五十五分の客』のほかに、『風と共に来たり風と共に去りぬ』とか『金権魔者』とかいった自作の著書を売っていた。一寸人を知る一助になると思い、そこに並んでいた十数冊の本を売ってくださいといったら、定価で私から全額とったのにはびっくりした。
もし本を書く職業の人が私のところへ訪ねてきて私に私の著書のことをきいたら、私なら近作の二冊や三冊は贈呈するだろう。全部欲しいといわれたら、タダにするかどうかもう一度考えてみるが、それでも定価で払えとはいわないだろう。私の場合は著者であり、本を書いているといっても、お金を払って出版社から買わなければならない立場である。それでも私は出版社から仕入れる値段で渡すか、それとも自分が負担してタダであげようかと思案する。
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