昭和二十九年から日本に住むようになった私は、「質屋の看板」をテーマにして随筆を書いたことがある。
新しく家を引越したとき、さしあたり知りたいのは医者と質屋がどこにあるかということである。小児科の医者はどこでしょうといって隣家の奥さんにきくことができても、質屋はどこにありますか、とはききにくい。何しろ質屋は横丁の人目につかないところにあって、新来者には見つからない。そこは質屋も心得ていて、道を歩いただけでどこにあるかわかるように看板を出している。うちへ曲がろうとする街角に質屋の看板があるものだから、家に来る友達に道を教えるのに、質屋の看板のあるところを右に曲がって、などといったりするが、質屋の看板は標識にならない。なぜならば、よく見るとどこの曲がり角にも同じような質屋の看板が出ているからである……。
だいたいそんな意味の随筆を書いたのだが、いまは国道筋の空地や畑の中にサラリーマン金融の大きな看板が出ている。昔の質屋とどこが違うかというと、一昔前は駅をおりてアパートまで歩いて行く人たちがお客さんだった。風呂敷に着物や帯などを包んで人に気づかれないように質草を運んできた。
いまサラ金のお客さんは、自動車に乗ってくる。マイカーの人もあるだろうし、トラックかステーション・ワゴンに乗ってくる人もある。この人たちは、米代を借りに行くのではなくて、マージャンの賭金や旅行に行く費用を借りに行く。質草も洋服や腕時計ではなくて、「未来の収入」である。一口が二〇万円から三〇万円までというのも、その程度の借金を踏み倒して自分の就職先を棒に振るようなサラリーマンはいたって少ないと見くびられているからである。
借金の動機が昔のように陰惨なものではないから、サラ金の社長も以前ほどは肩身のせまい思いをしないですむようになった。
アメリカには昔からこの種の商売があるが、日本でもクレジットの丸井が最近この分野に進出してきた。月六分のサラリーマンローンに対して年二九%の金利で商売をはじめたから、これが刺激になって、サラリーマンローンの金利は急速に下落するかもしれない。
そうなったら「経済観念のない人」を相手の金融機関として、その経宮者たちは銀行と肩を並べるというほどではないにしても、トルコのおやじよりはよほど世間のとおりがよくなるのではないか。どっちにしても、サラリーマンローンは質屋の現代版であるといえば、一番わかりがよいであろう。
以上を見てもわかるように、すべての業界には、古い業界にとってかわろうとする新商法と、新商法にとってかわられる古い体質の商法とがある。攻める立場と攻められる立場といい直してもよい。
ところであなたのいまの商法は、どちらにあたるのか。整理される側なのか、それとも成長してもっと大きくなる側なのか、そういう識別法で臨めば、解答は案外、はっきり出てくるのではあるまいか。
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