しかし、ふり返って考えてみると、親のほうだって自ら望んで苦労したわけではない。微兵に応じなければ刑務所に入れられたからやむをえず兵隊に行ったのであり、敗戦で食糧も職業もなかったから食うや食わずの生活を体験させられたのである。したがって、いまの若者は苦労が足らんとボヤいてもはじまらないし、まして、「苦労しなければ立派な人間は育たない」という論理は実際的ではないのである。
私の知っているある会社の社長が、
「うちの息子は藤沢においしいフランス料理屋があるといって、わざわざガソリン代を使って東京から藤沢まで食事をしに行ったりするのですよ。そんなゼイタクな子に育てた覚えはないんですがねえ」
と私にこぼしたことがある。貧乏から身を起こして勤倹貯蓄をして今日の地位を築いた父親としては、もっともな感想であろうが、私は、
「いいじゃありませんか。豊かな世の中になれば、おいしい物を食べるために遠くまで行くのは当たり前のことですよ。うちの息子なんか、学生時代に十日間もアルバイトをしてたった一回の食事のために車を運転して松阪まで牛肉を食べに行ったことがありますよ」
と息子さんのために援護射撃をしてあげた。
私の家では、まずゼイタクな食事をすることを道徳的な罪悪だと思っていないし、所得水準があがってくれば、多くの人が私たちと同じような考え方をするものと考えている。そうした目で世の中の動きを見ているから、すかいらーくやロイヤルホストのようなチェーン・レストランが生まれてくることも、またフランス帰りの青年たちによってややゼイタクなビストロが次々と生まれてくるだろうことも予想できた。「ほっかほっか弁当」のような外食産業がなぜ急速に展開されるのか、その背景をも理解できるのである。
反対に、もし「苦労しないと人間は育たない」という信念にいつまでも固執していると、スキー場が賑わうことも、外食産業が隆盛になることも、外国旅行をする若者がふえることも、すべて反撥のほうが先行するから、次の新しい事業として受け容れることができない。したがってまた、自分の事業をその方向に転換して行くこともできない。つまり時代に即応できるかどうかは、自分の体験にだけ固執するのか、それとも社会現象の変化に応じて自分の考え方を修正できる立場か、によって違ってくる。どうしても自分の体験に固執する人は、社会環境が変わっても定位置に坐ったままだから、頭の上で照っていた太陽もいつか夕陽に変わってしまっているし、千客万来だった商売もだんだん衰えて、ついには世間から忘れ去られてしまうのである。
だから、そういうきざしが見えはじめたときには、選手交替をすればよい。横綱の体力が衰えて横綱相撲がとれなくなれば、隠退をして「年寄り」になる。そういう交替がスムーズに行なわれれば、選手が交替しても興行としての相撲ショウバイは安泰である。それと同じように企業を一つの土俵と考えれば、社長が隠退し、息子なり他の人が代わって、新しい血を絶えず補給すればよい。
ただ中小企業の場合は、大企業と違って、企業そのものを存続させるために縁もゆかりもない別人に変わってもらうわけにも行かない。したがってもし身内に後継者がいなければ、早い遅いの違いがあるだけで、やがて廃業という運命が待っている。
最近のように時代の変化が激しく、商売のやり方がすぐ時代遅れになり、しかも息子が後を継がないならば、選手交替即廃業ということになる。
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