商売の独創性
私が台北市に建てたビルは、中山北路と南京西路の交差点に向かいあって建っている。東京でいえば銀座四丁目の交差点みたいなところであるが、この十年間に世の中の移り変わりを絵でも見るように見てきた。
まず十年前、私がここに第一ビルを建てたときは、台湾はまだ高度成長がはじまったばかりであった。台北市の女子従業員のサラリーはわずか一〇〇〇元(当時は一元が八円、今は六円)。
それが毎年、値上がりして七、八年で八○○○元に達した。
完成したばかりの私のビルの一階と二階を借りて日本人が『富士』という大喫茶店をはじめたが、そのときに従業員の募集をしたら、何と三〇〇〇人も応募者が押し寄せた。まだたいした仕事もなく、潜在失業者が台北市に充満していたのである。
富士珈琲は一杯五〇〇元のコーヒーを売り出して評判になり、新聞でも高すぎるといって叩かれたりしたが、世の中には物好きも結構たくさんいて、全盛期には一日に一〇杯以上売れたそうである。「没有三天好光景」(好況は三日続かない)というコトワザもあるように、ちょっとでもお金の儲かる商売があると、たちまち模倣者が現われる。富士珈琲の繁盛ぶりを見て、台北市内に同じようなスケールの店があっという間に何十軒もできあがった。もともと東京の不動産屋が片手間にはじめた仕事で、マネージャーに任せっきりだったから、約二年で店はつぶれた。あとを日本から帰ってきて高雄で縫製工場をやっていた華僑出身の青年がひきうけ、ファッションの店に切りかえた。
この二年間に一〇〇〇元だった女の子のサラリーが、二〇〇〇元にはねあがった。収入が一〇〇〇元しかなかったときは、自分たちの寮費や食費のほかに、家への送金(台湾の若い人は親孝行で必ずのように親に送金をする)を差し引くと、彼女たちの手元にはいくらも残らなかった。しかし、二〇〇〇元になり三〇〇〇元になると、少なくとも一〇〇〇元以上の小遣いが使えるようになる。
この傾向が目についたので、「もうすぐ消費経済の時代がはじまりますよ」と私は新聞のコラムで鉦太鼓を叩いて、商売人たちの注目をうながした。私のビルの一階でファッションの店をはじめた人が、時代の先端をきった形になり、若い女の子相手のファッション・ビジネスは台北市を風靡し、やがて全島にひろがって行った。
三年遅れてお向かいに第ニビルが完成した。敷地三〇〇坪、地下二階、地上二階のモダンな建物で、私は台北市でもっともデザインにお金のかかったショッピング・センターにする計画を立てた。一階の前半分がファッションの店、後半分がガーデン・コーヒーショップ、地下がフランス料理屋、イタリア料理屋、高級バー、二階が大型コーヒー店、三、四階が中華料理屋、八階から十一階までがビジネス・ホテルという構想であった。ほかに結婚式場も考えて、東京の友人に頼んで図面までひいてもらったが、これは引受手がないためにとうとう実現しなかった。あとの部分も紆余曲折があってすぐには実現しなかったが、あれから七年たってふりかえって見ると、うまく行った店もあれば、経営者が入れかわった店もあり、わずかの間にこれだけ有為転変があるものかと、改めて考えさせられる。地下と一階の主がかわり、二階の大型コーヒー店と八階から上のホテルが、いずれも気息奄々である。三、四階の中華料理屋は一貫して商売繁盛をしているが、一階の人が失敗したあとに新しく開業したカフェテリアは押すな押すなの大盛況を呈している。
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