まず一階は表通りに面しているので、その部分にファッションの店ができた。この店は五年間のあいだに経営者が二回入れかわったが、あとをついだ人も結局は頑張りきれなかった。というのは、私の第一ビルでファッションの店をやった人は自分なりの独創性を持って商売をはじめたが、第二ビルではじめた人は、お向かいの店の繁盛ぶりを見て、見様見真似でイミテーションの店をつくったにすぎない。もっとも、先頭をきった人に独創性があるといっても、店の名前は『BIGI』という日本の有名店の名前をそのまま借用したものだし、日本のデザインを日本で発売と同時に飛行機で台北へ運び、それをコピーしてオリジナルの三分の一以下の値段で売り出すことであった。しかしそれはそれなりに一つの新しい発想であり、現地加工でやるとオリジナルを買ってくれる人もあるが、コピーはその一〇倍も売れたそうである。
客が集まってくれば次々と新しい工夫が可能になる。日本のファッション業者もおそらくは同じだったと思うが、そのうちにマンション・メーカーも育つようになり、彼らに出店させて売上げの中からパーセンテージをとることも可能になったので、専門店形式の体制ができあがった。これに対してお向かいの店を借りた人は、商売そのものに対するオリジナルのノウハウがないから、次々と新しいニーズをつくりあげることができず、いつの間にか二流製品を集めて、バーゲン、バーゲンで明け暮れるようになった。
一方、ガーデン喫茶店とフランス料理屋とイタリア料理屋、高級バーは、もともと私について台湾へ来た日本人の青年が、一軒目のビルの地下で日本料理屋をひらいて成功した勢いにのって、お向かいに手を伸ばしてつくったものであった。一軒目に成功したときは大へんな意気込みで、天をつく勢いであったが、東京に常駐していて台北の店は弟に任せたこともあって、経営に人を得なかった。弟のほうは真面目で、一軒の店なら何とかとりしきることができたが、マネージメントの器ではなかったから、たちまち手にあまるようになった。加うるに、台湾の人たちを使うのだから、言語上の障害もあったし、カルチャーの違いもある。いつまでたっても予定の売上げに達しないばかりでなく、赤字が続くと自信もなくなるし、店の管理もおろそかになるから、最終的には店じまいをして、台湾から撤退してしまった。
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